今までのまとめ


今までのまとめ

 結論だけを書きますので、理由はそれぞれのカテゴリをご覧ください。

1 第1次の徐福(紀元前219年)は米子市陰田町に到着し東南の大山(蓬莱山)に連れていかれ大神(伊邪那岐)の宮殿や銅色の龍形の使者がいて光が天を照らしている(光上照天)のを見た。大神(伊邪那岐)は「名声ある男子と童女とさまざまな分野の技術者を献上せよ」と言った(史記より)。
 大神(伊邪那岐)は徐福(天照大神)一族を住まわす葦原中津国(鳥取県北栄町大島周辺)を造るため、蒜山高原より倉吉市の新宮神社に降臨していた。伊邪那岐が伊邪那美から逃げて葦原中津国にたどり着くまでの黄泉(黄泉→津)比良坂は黄泉国(鳥取県倉吉市不入岡)から葦原中津国(鳥取県北栄町原)までの鳥取県道23号線であった。伊邪那岐(大神)が禊をした原は北栄町原であった。
 天照大神と素戔嗚は鳥取県大山町御崎の日御碕神社を出港して伊邪那岐が待っていた北栄町の大島と原(葦原中津国)に到着した。伊邪那岐は三貴神(天照大神・素戔嗚・月読命)を葦原中津国に迎え、彼らが治めるべき国を命じた。また、​​一族をここ(葦原中津国)で育てるよう指示した。​​天照大神は高天原に上がった。高天原は蒜山高原(5神社すべての祭神になっている)であった。​​​​蒜山高原には伊邪那岐・三貴神以前(旧石器・縄文時代)の神々もいた。​
 ​徐福一行は辰韓(新羅)にしばらくとどまったのち次々と伯州(伯耆国)に渡った。徐福本隊は鳥取県の大山(蓬莱山)を見ながら海を東に進み、大山の裾野の小さな湾に到着した(紀元前210年)。徐福は北栄町の大島と原(徐福文書にある宇記島・原)に上陸し、蒜山高原(史記にある瀛州)に上がり仙薬を探した。紀元前194年頃、準王一族(出雲族)が鳥取県中部を占拠したので、蒜山高原(瀛州)から降臨し、平原(琴浦町の伊勢野・鈴鹿野・斉王野・方見邑)と広沢(北栄町大島周辺)を得て王となった。
 天照大神は男性である。天照大神は道教の方士徐福である。​徐福は最初に見た「光が天を照らす」情景に因んで自ら「天照大神」と名乗った(史記より)。月読命は保食神であり女性である。

2 素戔嗚は葦原中津国(倉吉市谷)で泣いてから蒜山高原(高天原)に上がり、天照大神と淀江町高井谷の天真名井でうけいをした。その後、海原(倉吉市中心市街地)の近くの三朝町山田(ヤマタ)にいた八岐大蛇を退治した。八岐大蛇は第一次の徐福一行(紀元前219年)を追ってきた始皇帝の家来たちであった。素戔嗚は稲田姫とその両親と三朝町助谷経由(助谷ぼうき)で蒜山に上がり、天叢雲剣を天照大神に渡してから、天穂日とともに、鳥取県智頭町(木国)の那岐山に遷っていた伊邪那岐を追って、稲田姫と鳥取県八頭町大江郷に住み、大国主を生んだ。天照大神も河原町の霊石山と氷ノ山に行ってみた。
 殷王朝末裔の箕氏朝鮮の準王一族(因幡の白兎伝説における大国主の兄の八十神)は徐福たちに16年遅れて出雲国、伯耆国、因幡国に到着した。琴浦町の方見郷(建御名方)・北栄町の葦原中津国(事代主)にも住んだ。
 伊邪那岐が亡くなってから、素戔嗚は倉吉市(根国)の清熊稲荷神社の峰(哮峰)に須勢理姫(宇迦之御魂神)と住んだ。大国主が冒険した根国(黄泉国)は鳥取県倉吉市であった。大国主は須勢理姫を背負って黄泉比良坂の麓(不入岡)から宇迦能山(北栄町茶臼山=伊那佐山=大神山)に逃げた。素戔嗚(天津御祖神)は十種神宝(須勢理姫が大国主に使った比礼を含む)を饒速日に与えて東山神社に移り、大蛇を斬った剣を天神川の対岸の大原神社に奉納した。倉吉市大原を石上といい、石上神宮は倉吉市大原の大原神社であった。

3 素戔嗚の子の大国主が完成させた葦原中津国は鳥取県北栄町にあった。そこに大年神や兄の八十神(準王一族=出雲神族)と一緒に多くの妻子を住まわせていた。大国主(八島士奴美神)は須勢理姫(宇迦之御魂神)と一緒に北栄町の茶臼山(伊那佐山=宇迦能山=大神山)に住み、茶臼山の松樹庵を本拠地として少彦名(雲南省出身)とともに、全国の国造りをしていた。
 伊邪那岐や大国主のいう国造りとは、人口を増やすことであり、そのための育児・食育の環境を整えることであった。
 「天の安河の河原」は蒜山高原の西隣の鳥取県江府町下蚊屋明神の地である。思金神は江府町貝田神社から来た。天照大神など八百万神は蒜山高原から来た。鳥取県八頭郡で素戔嗚の子の大国主を生まれた時から守っていた天穂日を大国主のもとに行かせることにした。
 饒速日命・天照大神・月読命(保食神)・5伴緒・思金神など大勢は鳥取県江府町下蚊屋で合流し、猿田彦の待っていた江府町鏡ヶ成より野添経由で倉吉市関金町の神田神社に到着した。
 饒速日は船で日吉神社から小鴨川を下り、倉吉市(根国)の清熊稲荷神社の峰(哮峰)に降臨した。哮峰で天津御祖神(素戔嗚)から十種神宝(比礼を含む)を授かった。
 天忍穂耳は関金町耳から船で(櫛玉)饒速日と一緒に哮峰に到着した。哮峰にいた素戔嗚は少彦名の居なくなった大国主に協力してくれるよう天忍穂耳に頼んだ。天忍穂耳は哮峰から猿田彦と一緒に船で茶臼山の東の海に行き大国主に会った。天忍穂耳(大物主)の本拠地は大国主のいた茶臼山の西の北栄町下神(しもつみわ)の三輪山(神山)であった。猿田彦の本拠地は隣の北栄町松神であった。大物主(櫛甕玉)とは(櫛玉)饒速日の父の天忍穂耳であった。少彦名のいなくなった大国主と協力して全国の国造りをした。

4 天孫族の使いが国譲りの交渉にやってきた伊那佐小浜は鳥取県北栄町の茶臼山(伊那佐山=宇迦能山=大神山)にあった。
 素戔嗚の子の大国主が建ててもらった高い宮殿のあった多芸志小浜は鳥取県湯梨浜町長瀬高浜にあった。笠沙之御前(北条砂丘)の中央と東端である。
 饒速日は倉吉市寺谷にいた天若比古に使いを遣り、倉吉市の夏谷(鳥見の白庭山のちに天の香久山)に降臨し定住した。
 天照大神・月読命(保食神)一行は神田神社から伊勢野の天照皇大神宮(鳥取県琴浦町斉尾)と外宮の月下の宮(鳥取県琴浦町槻下)に降臨した。建御名方は琴浦町の方見郷(加勢蛇川周辺)に居た。
 饒速日は天穂日の縁結びで出雲族(準王一族)の王(のちに大国主と名乗る)である長髄彦の妹を娶った。長髄彦も中洲と倉吉市夏谷(鳥見の白庭山)と倉吉市富海(鳥見邑)に住んだ。
 饒速日が亡くなったので、四歳の瓊々杵命は猿田彦の道案内で、蒜山の加茂神社、関金町の矢送神社、高城の楯縫神社を経由して北栄町上種の大宮神社(日向)に降臨し、葦原中津国を平定した。
 葦原中津国に住んでいた事代主と百八十神(出雲族)は、倉吉市福庭を経由して湯梨浜町長和田(湖の畔)に移りそこで余生をおくった。
 「笠沙之御前」は鳥取県の北条砂丘であり、「葦原中津国」は鳥取県北栄町大島を中心にした地域であった。
 ​瓊々杵命と同時に豊受姫(倉稲魂命)は月下の宮(鳥取県琴浦町槻下)に降臨した。
 猿田彦一族は蜘ヶ家山(鳥取県北栄町)に住んでいた縄文人であった。​
​ 瓊々杵命と木花之佐久夜毘売(豊玉姫)の子の火火出見命(鵜草葺不合)は辰韓に行き玉依姫と知り合った。火火出見命(鵜草葺不合)は倭国に帰り、倉吉市大谷の四王寺山(日向)に宮を定めた。火火出見命(鵜草葺不合)と玉依姫との間に神武四兄弟が生まれた。

5 神武四兄弟は倉吉市大谷の四王寺山(日向・畝傍山)で育った。神武四兄弟は九州平定のため、また二男と三男が大陸に渡るため、九州に行った。四兄弟の目的は準王一族(鬼・土蜘蛛・蝦夷)を平定することであった。宮崎県から奈良県に行く神武東征は藤原氏によって作り替えられた創作物語であった。
 九州平定後、五瀬と磐余彦は倭国(鳥取県中部)に帰ってきたが長髄彦の矢があたり、五瀬は鳥取県智頭町(木国)で亡くなった。磐余彦は広島県福山市まで退却し福山市を本拠地にして倭国(鳥取県中部)を取り戻す機会をうかがっていた。摂津国の東奈良遺跡に行き銅鐸絵画ではなく土器絵画にするよう指導した。しかし奈良までは行かなかった。
​ 磐余彦は岡山県の旭川沿いに蒜山高原(高天原)に上がり饒速日と同じ鏡ヶ成から野添経由で倉吉市高城地域(上大立)に下りて穿って道(下見関金線と円谷広瀬線)をつけ、留守の間に倭国(鳥取県中部)を占拠していた準王一族(出雲族)を平定し、初代天皇として紀元前60年に倉吉市大宮(橿原宮)で即位した。楯縫邑(倉吉市高城)と笠縫邑(琴浦町八橋)もその時に開いた。神武天皇は情報戦・ゲリラ戦を展開していた。
 三男の御毛沼命は常世国(中国雲南省)に渡り倭国への渡来コースを変更させた。
 二男の稲飯命は辰韓に行き紀元前57年に新羅を建国した。神武天皇はヤマト(倭)国の国号を「ソ(徐)ラミツ」とし、稲飯命は新羅国の国号を「ソ(徐)ナバル」とした。

6 欠史8代の天皇は鳥取県中部にいた。第2代綏靖天皇の皇居は北栄町蜘ヶ家山(葛城山)の岡神社。第3代安寧天皇の皇居は湯梨浜町橋津観音堂。第4代倭国大王懿徳天皇(在位40年~75年頃)は奈良を平定し、銅鐸祭祀の一族に線刻土器祭祀を始めさせた。また、初めての中国への朝貢を倭奴国(倭国に従う国)にさせた。奈良を平定したのは神武天皇ではなかった。皇居は倉吉市小田山。第5代孝昭天皇は倉吉市穴沢の灘手神社。第6代孝安天皇は北栄町大島(灘手が秋津のトナメに見える)。第7代孝霊天皇(在位145年~170年頃)は湯梨浜町宮内の倭文神社。第8代孝元天皇(卑弥呼・大吉備津彦・若日子武吉備津彦の兄)の皇居は倉吉市小田。第9代開化天皇(若日子武吉備津彦・倭建命)の皇居は北栄町瀬戸の観音寺。欠史8代の皇居は奈良の石碑だけとは異なり皇居を中心にした集落単位で想定できる。
​​​ 倭国王家は初代神武天皇から第10代崇神天皇が全国に神道の社を建てて統一するまで、準王一族(出雲神族)と対立していた。準王一族は生贄の風習を残す殷王朝末裔であり、かたや人命を大事にして人口を増やしたい倭国王家である。準王一族の祭祀を変えるまで相いれることはなかった。倭国歴史書を改ざんしたのも半島に残っていた準王一族(百済人=藤原氏)であった。同族が平定される様を残せなかったし、神武東征との整合性から2代から9代までの旧辞は消した。

7 倭国大乱の原因は孝霊天皇をめぐる出雲神族の姫たちの嫉妬であった。卑弥呼は第7代孝霊天皇の皇女・日女命又の名は倭迹迹日百襲姫命である。稚日女命と倭姫命は藤原氏に名前を変えられた卑弥呼であった。内藤湖南(倭姫説)と笠井新也(倭迹迹日百襲姫説)はどちらも正しかった。藤原氏の国史改ざんによって混乱が生じていた。卑弥呼の出身は鳥取県湯梨浜町宮内(黒田庵戸宮)である。
 魏志倭人伝に「倭の地ではその身体に朱丹を塗る」とあるが、鳥取県中部の古墳から出土した人骨42体(歯のみは省略)のうち11体(26%)は朱を塗った状態で亡くなっている。​魏志倭人伝に「倭人の俗は、儀式や行事を行い、何かを言ったり行ったりする時は、骨を灼いて卜し、以って吉凶を占う」とある。青谷上寺地遺跡で全国で一番多い240点の卜骨が出土した。倭姫命世紀にある「倭の笠縫邑」は鳥取県琴浦町の「八橋」であった。「倭の彌和の御室嶺の上の宮」は鳥取県北栄町下神(しもつみわ)の三輪神社であった。倭国は鳥取県中部であった。倭国大乱は鳥取県を中心にした出雲族の反乱であった。
​ 倭姫命(卑弥呼)と倭建命の皇軍は鳥取県の出雲族(鬼・土蜘蛛・河童・蝦夷)を平定して倭国大乱は終結した。その後、倭姫命(卑弥呼)と倭建命の皇軍はさらに、西は長崎県・朝鮮半島、東は岩手県までの広範囲を平定した。全国に神社を建てて銅鐸祭祀を銅鏡祭祀の神道に改宗させた。全国の代表者を集めての祭祀は鳥取県北栄町下神(しもつみわ)の神浅茅原でしていた。その時、開化天皇や崇神天皇は豊田市の猿投神社に、倭迹迹日百襲姫命は神戸市の旧生田神社にいた。​
​​​ しかし、鳥取県中部は東国から遠いため神道の祭祀は奈良の纒向ですることにした。しかし、奈良盆地には平定されたとはいえ敵対していた殷王朝末裔の準王一族(銅鐸祭祀の一族)が多く居たため、卑弥呼の安全な居所を探さなければならなかった。宇陀を出発し志摩国までめぐる「倭姫命世紀」は卑弥呼の安全な居所を探す巡行であった。卑弥呼(151年~248年)の居所は志摩国に定めた。魏志倭人伝に「南の邪馬壹国に至る。女王が都とするところ」とある。女王はそれまでの都(鳥取県中部)を離れて新たに邪馬壹国(志摩国)を都とした。邪馬台国は志摩国(志摩市・鳥羽市)であった。その時はまだ藤原氏の創った​​​邪馬台国(志摩国)を封印するための伊勢国・伊勢神宮(現在も大宮司は藤原氏の鷹司)はなかった。
 奈良盆地の集落の環濠を埋めさせたのは190年頃である。奈良の纒向で祭祀をするときは、吉野町宮滝経由で纒向に行き、帰りは和歌山の玉津島神社から船で何日もかけて伊射波神社まで帰った。卑弥呼の墓は鳥羽市安楽島町の松の鼻古墳である。
 台与は豊鋤入姫命であり第12代景行天皇(武雄心命)の妹である。景行天皇(武雄心命)の妹は倭姫命ではなく豊鋤入姫命であり、神功皇后のモデルであった。豊鋤入姫命は甥の武内宿禰と一緒に行動していた。豊鋤入姫命は都を鳥取県中部(倭)に戻し、倉吉市鋤集落を本拠地にした。

8 第10代崇神天皇(大吉備津彦、卑弥呼の弟・湯梨浜町長和田)と第11代垂仁天皇(湯梨浜町川上)は師木地方(鳥取県湯梨浜町)に皇居があったが出先(岡山県の木国=津山と久米=大宮)を中心に活動していた。第12代は景行天皇(武雄心命)(奈良県纒向)。第13代は武内宿禰大王(北栄町原)叔母の豊鋤入姫命と行動。第14代は仁徳天皇(13代の第4皇子・平群木菟宿禰・湯梨浜町松崎神社)。第15代は応神天皇(13代の第6皇子・葛城襲津彦・倉吉市穴窪と湯梨浜町小鹿谷)。第16代は履中天皇(15代の第1皇子・讃・北栄町米里)。第17代は反正天皇(15代の第3皇子・珍・皇居は鳥取県中部)。第18代は允恭天皇(15代の第4皇子・済・倉吉市下古川)。第19代は安康天皇(興・倉吉市大原)。第20代は雄略天皇(武・倉吉市長谷寺)。第21代は清寧天皇(北栄町米里)。第22代は仁賢天皇(倉吉市大原)。第23代は武烈天皇(倉吉市打吹山)。第24代は継体天皇(北栄町米里)。第25代は安閑天皇(三朝町大瀬)。第26代は蘇我稲目大王(湯梨浜町龍島と倉吉市大江神社)。第27代は蘇我馬子大王(北栄町北条島)。第28代は蘇我入鹿(善徳)大王(北栄町由良宿)。第29代は蘇我倉山田石川麻呂大王(湯梨浜町長江)。
 ​宣化・欽明・敏達・用明・崇峻・推古・舒明・皇極・孝徳・斉明・天智は倭国大王ではなく百済王であった。百済王の古墳は方墳・六角墳・八角墳であり、倭国王の古墳は円墳・前方後円墳であった。​​​
​ 第30代は天武天皇(倉吉市賀茂神社)。第31代は高市大王(キトラ古墳・皇居は鳥取県中部)。第32代は忍壁大王(高松塚古墳・皇居は鳥取県中部)。第33代は穂積大王(皇居は鳥取県中部)であった。第34代大王(皇居は倉吉市の北野神社)は安全のため鳥取県中部にいた。​​​菅原道真の出身地は倉吉市の北野であった。​

​9 葛城・軽・磯城(師木)・泊瀬(長谷)・宇陀・磐余邑・河内・難波・出雲大社・伊勢神宮・石上神宮・三輪神社は鳥取県中部(倭国)にあった。奈良県・大阪府南部・和歌山県も藤原氏の創ったテーマパークであった。
 642年から734年まで列島には倭王朝と亡命百済王朝(日本)が並立していた。舎人・新田部・藤原四兄弟は734年に倭(鳥取県中部)にいた大王(天皇)を殺害した。天照大神から続いてきた姓が天(アマ)の大王は734年で途絶えた。倭国と兄弟国であった新羅の刺客は舎人・新田部(735年)と遣新羅使(736年)と藤原四兄弟(737年)を殺害した。新羅には八百年の間兄弟国として助け合ってきた倭国大王(天皇)の仇討をする正当な理由があった。
​​​ 紀元前60年の神武天皇の即位から734年(長屋親王の変は729年)まで約八百年の間、列島は倭(鳥取県中部)に従属していた。​



​ これほど何もあったのに、まるで催眠術にかかったように「鳥取県には何もない」という言葉が鳥取県民から出てくる。この状態こそ藤原道長が思い描いていた望月の欠けることのない状態である。そのためにすべての証拠を消し去っていった。証拠となる人間も引きずり出して公開処刑し「鳥取県には何もない」という言葉を植え付けた。奈良時代から京都(平安)時代に宮崎県・島根県・奈良県・三重県・和歌山県に大きくて立派なテーマパークを造り、これほど大きくて立派な神社や遺跡があるのだから、お前の言うことは嘘である、として殺していった。これが勝者の歴史作りである。

​ 奈良国立文化財研究所の研究員が「これ以上鳥取県で遺跡が見つからないでほしい。古代史の定説が覆ってしまう」と言った。しかし、鳥取県民は長瀬高浜遺跡や妻木晩田遺跡や青谷上寺地遺跡が発掘されてもほとんど無関心である。まるで古代史に触れることがタブーであるかのように。

​ 蘇我馬子大王は日羅の進言に基づき、任那(全羅南道)を侵す百済に対して、王か王子が倭国に来るよう要求していた。631年、百済王武は、唐の倭国使高表仁が百済を通る時に豊璋と塞上を倭国に連れて行くように頼んだ。中大兄王子(豊璋)は6歳で、弟の塞上とともに鳥取県北栄町由良の蘇我入鹿(善徳)大王の皇居(由良の宮)に来た。驚いた蘇我入鹿(善徳)大王は高表仁の非礼をとがめた。中大兄王子(豊璋)は由良の宮に来た時から教えられていた六韜に基づいて蘇我入鹿(善徳)大王を徹底的におだてた。人の良い蘇我入鹿(善徳)大王は、中大兄王子(豊璋)と塞上を大海人皇子と同じように育てた。蘇我入鹿(善徳)大王は、隋の裴世清たちが蘇我馬子大王に北栄町北条島で謁見した時の話を聞かせていた。中大兄王子(豊璋)は「日出ずる処の天子・・・」の話を「日本」の参考にし、「大国維新之化を教えて欲しい」の話を「大化の改新」の参考にした。

 中大兄王子(豊璋)の母(641年に亡くなった武王の妻で皇極・斉明)と鎌足(翹岐)は、高名な40人を乗せた百済からの船で奈良に到着した(642年)。中大兄王子(豊璋)は法興寺での蹴鞠の会(643年)で鎌足(翹岐)に出会って奈良に住んだ。
​ 高句麗と百済は中国の兵法書「六韜」に基づいて行動していた。645年に、中大兄王子(豊璋)と鎌足(翹岐)は談山(テロリストのアジト)で計画したとおり、「豊璋(天智)の母(皇極)が会って礼を言いたい」と欺いて呼び出し、聖徳太子こと蘇我善徳大王を斬首した。
 647年に倉吉市大原の石上神宮の武器と宝物を「蘇我倉山田石川麻呂大王が奈良は物騒だからと言った」と欺き奈良に移した。蘇我善徳大王の大海人皇子(天武天皇)は649年(18歳)に鳥取県倉吉市の賀茂神社を皇居として即位した。​
​ 660年、残りの百済王族も列島に亡命した。天智と鎌足は天武天皇に額田王と十市皇女と引き換えに大田皇女と鸕野讃良を差し出した。

 天武天皇も役行者も大来皇女も長屋親王も泊瀬の斎宮(倉吉市の大御堂廃寺)で道教を会得した。

 ​「日本」とは669年に百済人の天智(豊璋)が近江で考えた国号である。斬首した首を包んだ白い布を日本の国旗とした。

​ 天武天皇は鎌足の殺害(669年)後、その子3人(氷上娘・不比等・五百重娘)に罪はないとして引き取った。670年、天智は斑鳩寺・斑鳩宮を放火焼失させた。天武天皇は671年に父親と従兄殺しの犯人として天智を殺害したが、その娘2人に罪はないとして引き取った。その後、父の蘇我善徳大王(聖徳太子)の建立した斑鳩寺を法隆寺として再建した。

 日本書紀は壬申の「乱」とするが「乱」ではなく、神武天皇の時から倭国大王家が準王一族(蝦夷)の「乱」に対して行なってきた平定であった。

​​​ 藤原不比等は大王や側近を徹底的におだて、相手の判断が鈍ったところで毒殺した。不比等と鸕野讃良は大王や多くの要人を毒殺している。高市大王(在位686~696)、忍壁大王(在位696~705)、穂積大王(在位705~715)は在位期間が短いので暗殺されている。不比等のおだてを見ていた周囲の者は誰も不比等が犯人だとは気が付かなかった。亡命百済王朝(日本)は、助けてくれた倭王朝の恩を忘れて734年に安全のため倭(鳥取県中部)にいた大王(在位715~734)(大伴旅人や山上憶良の表記は大君)も殺害した。倭国は734年に滅んだ。

 全国に4万4千社ある八幡神社は倭王朝の伝承を消すために8世紀に日本(亡命百済王朝)の神社として始まった。倭姫命(卑弥呼)と崇神天皇が全国を平定するために始めた神社のやり方を真似て全国を支配するため、八幡神社を増やして全国の支配を拡げていった。八幡神社を全体の半分以上とし、3世紀に倭王朝(卑弥呼や崇神天皇)が建てていた神社をも飲み込んで列島を支配した。倭王朝に虐げられていた準王一族(鬼・蝦夷)にも福付き姓に対抗して藤(百済)付き姓を与えた。準王一族は東北や出雲や阿蘇や高千穂に多い。藤原氏は現在、伊勢神宮(神社本庁の本宗)を頂点として全国8万5千の総ての神社を支配している。伊勢神宮の大宮司は鷹司(NEC通信システムの元社長)である。

 藤原氏は天皇を隠れ蓑にして最大権力を持ち続け、裏で歴史を動かしてきたが、歴史に名を残さない(藤原氏の思い通りにするよう仕掛けて実行させ、その行為が後に批判を受けると、自分の指示ではないと逃げる)ことが家訓であった。源平合戦、本能寺の変、秀吉の朝鮮征伐、西南戦争、多くの暗殺事件、大東亜戦争などは藤原氏が仕掛け人である。近衛(日本赤十字社のリーダー)は藤原氏の本家である。国民には百済国の歴史書である日本書紀を正史・国史としこれに反する言論・出版は戦前まで不敬罪により罰した。列島において斬首(豊璋=天智天皇)・暗殺(翹岐=藤原鎌足)を始めたのは倭国を乗っ取った百済人である。

​​ 藤原氏の支配は政財界や各種組織のリーダーとして現在でも続いている。明治維新は王政復古であり藤原王朝が元気を取り戻した時代であった。半面、明治維新は鳥取県中部(倭国)にとってはさらに受難の時代であった。歴史上重要な神社が並み以下にされた。藤原氏(明治政府)は天照皇大神宮を方見神社とし、賀茂皇大神宮を賀茂神社とした。倉吉の雄略天皇と武烈天皇の皇居の間に大きな鎮霊神社を建立した。明治政府の冷遇に鳥取県はうるさかったようだ。明治政府はうるさいことを理由として鳥取県を無くし、明治9年に島根県に合併して松江を県都にした。さらに藤原政府は大正時代に神社が多いという理由で、八幡神社はそのままで、伯耆国の由緒ある多くの神社を合併の名のもとに消した。この藤原体制は太平洋戦争が終了するまで続いた。

​​​​​​​​ 戦後73年経って、藤原氏はまた戦前までの藤原体制を再興しようとしている。「藤原にあらざれば人にあらず」(国民の命を虫けらのように扱う)の精神が復活しようとしている。





2019年1月倭国古代史研究会を起ち上げました。「倭国」をむやみに使用しないようお願いします。
当時、使用が少なかった「真実」の文字が今は氾濫しています。「倭国」とは奈良時代まで全国に121国あった小国の一つであり、鳥取県中部のことでした。


​​※ 倭国の都(鳥取県中部)に関する地をあげてみました。
クリックされると多くの比定地が出てきます。​​https://www.google.com/maps/d/embed?mid=zHBbhU6acc3o.kqAjrr24ZHBA
​地図の左上をクリックされると一覧が表示されます。 ​​平成28年​5月11日更新​

台与は豊鋤入姫命であり、景行天皇の妹であった

​​台与は豊鋤入姫命であり、景行天皇の妹であった

​​1 魏志倭人伝の卑弥呼と台与と国史における倭姫命と豊鋤入姫命
(1) 魏志倭人伝によると「倭国は乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち一女子を共立して王と為す。名は卑弥呼という。鬼道に事え能く衆を惑わす」とあり「更に男王を立つ。国中服さず。更に相誅殺し、当時、千余人を殺す。復(また)、卑弥呼の宗女、壹與、年十三を立てて王と為す。国中遂に定まる」とある。
 「台与は卑弥呼の宗女」とある。宗女とは宗室(王室)の女子のことである。台与は卑弥呼の属する宗室(王室)の女子であり「王の娘」である。
 国史において豊鋤入姫命は崇神天皇の皇女とされる。豊鋤入姫命は台与(トヨ)と発音も似ているので、魏志倭人伝の台与(トヨ)と思われる。卑弥呼も宗室(王室)の女子と思われる。卑弥呼は倭国大乱の時代の天皇の皇女(王の娘)であった。
 倭国大乱(146年~189年)後に女王となった卑弥呼の父は孝霊天皇(120年~211年)と思われる。孝霊天皇は鳥取県西部で鬼(出雲族)と戦っていた。孝霊天皇の皇女で卑弥呼にふさわしいのは倭迹迹日百襲媛命である。
(2) 日本書紀・垂仁天皇には「天照大神は崇神天皇皇女の豊鋤入姫命から離され、垂仁天皇皇女の倭姫命に託された。その後、倭姫命は大神を奉斎しながら諸地方を遍歴し、伊勢に行き着く」とある。また、倭姫命世記は「天照大神は豊鋤入姫命を御杖代として各地を巡幸していたが、豊鋤入姫命が老年になるに及んで御杖代を皇女倭姫命に交代した。倭国、彌和乃御室嶺上宮までは豊鋤入姫命が、以後は倭姫命が天照大神の御杖代となって諸国を巡幸した」とする。
(3) 台与を豊鋤入姫命とし卑弥呼を倭姫命に比定すると、国史と魏志倭人伝とは順番が違う。どちらが正しいだろうか。
 疑問や矛盾の多い国史より魏志倭人伝のほうが正しいと解すべきである。国史では「豊鋤入姫命は崇神天皇の皇女」とするが、これは倭国を乗っ取った藤原氏による系譜の改ざんである。
 倭姫命世記は「天照大神が高天原に坐して見し国(伊勢国)に坐せ奉る」ために天照大神を奉戴して巡行した、とする。しかし、伊勢神宮ができた由来とするには説得力がない。何を言っているのかわからない。「天照大神が高天原から見た国に行きたい」では理由にならない。伊勢神宮でなければならない理由が書かれていない。倭姫命の巡行は宇陀、伊賀から始まるため、倭姫命の巡行の次に、豊鋤入姫命の巡行では伊勢神宮に行きつくことはできない。「天照大神が高天原から見た国に行かせる巡行」とするためには、倭姫命の巡行の前に、巡行が三輪神社(本当は鳥取県北栄町の三輪神社)で終わる豊鋤入姫命の巡行が必要であり、そのあと、宇陀から始まる倭姫命の巡行、としなければならなかった。伊勢神宮ができた由来を創作するために、目的も時代も違う巡行を整合性を図って順序を逆にして引き継いだとしなければならなかった。
(4) 倭姫命の巡行目的と豊鋤入姫命の巡行目的は違っていた。史実は「2世紀、倭姫命と倭建命の全国の準王一族(出雲神族)の平定が済んでから、倭朝廷と神戸にいた倭姫命(卑弥呼)が相談して奈良の纒向で神道の祭祀をすると決めて、倭姫命(卑弥呼)の安全な居所を探すために巡行し志摩国を都と定めた。3世紀、倭姫命(卑弥呼)が亡くなってから豊鋤入姫命(台与)は倭朝廷に深く関係する一族の倭姫命(卑弥呼)が亡くなった失望による誅殺を鎮め安定させる巡行をした」であった。2人の巡行は別の時代のそれぞれ違う目的の巡行であった。
 豊鋤入姫命が巡行した本当の巡行地は、倭国の笠縫邑は「鳥取県琴浦町八橋」であり、但波乃吉佐宮は「京丹後市丹後町の竹野神社」であり、倭国の伊豆加志本宮は「倉吉市長谷集落の長谷神社」であり、木乃国の奈久佐濱宮は「津山市二宮の高野神社」であり、吉備国の名方濱宮は「倉敷市上東」であり、倭国の彌和乃御室嶺上宮は「鳥取県北栄町下神の三輪神社」であった(別稿「倭姫命世記において豊鋤入姫の巡行した本当の比定地」を参考されたし)。鳥取県中部(倭国)が都であったから、但波乃吉佐宮(竹野神社)と木乃国奈久佐濱宮(津山市二宮高野神社)と吉備国名方濱宮(倉敷市上東)は都であった鳥取県中部(倭国)をとりまく周辺地域である。魏志倭人伝にある千余人が誅殺し合ったのもこれら6地域であった。彼らは倭朝廷に深く関係する一族であり、卑弥呼(倭姫命)が亡くなった失望により誅殺し合っていた。
(5) 孝霊天皇は鳥取県西部に残る楽々福神社の由緒、日野郡誌、溝口の鬼伝説などにより実在した天皇であり、鬼(準王一族=出雲神族)と戦った。孝霊天皇(120年~211年)は倭国大乱(146年~189年)の時代の天皇である。
 鳥取県日光村の山田神社にいた孝霊天皇に「笹の葉を積み上げて南風が吹くのを待て」と告げた天津神は隣りの吉原神社にいた稚日女命であり、稚日女命は「神意を伺い・まじない・占い・知能の優れた」孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫命であった。志摩国一之宮の伊射波神社の祭神の稚日女命(倭迹迹日百襲姫命)と志摩国に神界を定めた倭姫命は同一神であった(別稿「倭姫命は『迹々日百襲』を省略された倭迹々日百襲姫命であった」を参照されたし)。
 卑弥呼は宋女(王の娘)であった。孝霊天皇と卑弥呼は共に倭国大乱の時期を生きており、卑弥呼(日皇女)は孝霊天皇の宋女(王の娘)の倭姫命(倭迹迹日百襲姫命)であった。
(6) 全国を巡行して社を建て、準王一族(出雲神族)の銅鐸祭祀を道教の神道に変えさせる巡行は倭姫命がした。「倭姫命世記」は全国の平定後、倭王朝と倭姫命(倭迹迹日百襲媛命)が相談して奈良の纒向で全国の代表を集めて神道(鬼道)の祭祀をすると決めてから、倭姫命(倭迹迹日百襲媛命)の安全な居所を探すために、巡行した記録である。全国の準王一族(出雲神族)の平定は倭国大乱の間(146年~189年)に終わっている。全国の平定は台与の先代の卑弥呼がなしたことであり、台与は倭朝廷に深く関係する一族の卑弥呼が亡くなった失望による誅殺を鎮め安定させる巡行をした。
 倭姫命(倭迹迹日百襲媛命)は倭建命(若日子建吉備津日子命)と一緒に全国を平定しているから時代は倭国大乱の時代であり、倭姫命(倭迹迹日百襲媛命)は卑弥呼であった。
(7) 崇神天皇は全国を平定し、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と尊敬さているので、魏志倭人伝に言う信頼されない「男王」ではない。また、崇神天皇は90歳くらい(卑弥呼が亡くなる248年で)まで天皇であったとは思われない。卑弥呼が亡くなるまでに垂仁天皇に譲位していた。垂仁天皇の在位は崇神天皇から生前譲位を受けて卑弥呼が亡くなる248年頃までであった。卑弥呼が亡くなった後の「男王」は垂仁天皇の次の景行天皇であった。豊鋤入姫命(台与)は景行天皇(男王)の妹であった。
 豊鋤入姫命(台与)は倭朝廷に深く関係する一族の倭姫命(卑弥呼)が亡くなった失望による誅殺を鎮め安定させる巡行をした。豊鋤入姫命(台与)は崇神天皇や垂仁天皇の妹ではない。日本書紀は景行天皇の妹を倭姫命とするが、原古事記では景行天皇の妹は豊鋤入姫命であった。
(8) 原古事記には「孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲媛命(倭姫命)」とあり、「垂仁天皇の皇女、豊鋤入姫命」とあった。藤原氏は、本来、垂仁天皇の皇女であった豊鋤入姫命を崇神天皇の皇女とし、本来、孝霊天皇の皇女であった倭姫命(倭迹迹日百襲媛命)を垂仁天皇の皇女とした。その動機は、伊勢神宮を創建したもっともらしい由来(鎌倉時代に執筆された神道五部書)を創らなければならなかったからである。
 倭姫命も豊鋤入姫命も欠史8代の皇女なり妹とすることは不比等の思いに反することになる。のちの藤原氏は崇神天皇も垂仁天皇も欠史8代ではないのでこの2天皇を利用した。
 ただし、景行天皇は架空の天皇であり、倭国12代大王は倭国13代大王武内宿禰の父の屋主忍男武雄心命であった(別稿「豊鋤入姫命(台与)は都を鳥取県中部(倭)に戻した」を参照されたし)。

2 海部氏勘注系図も豊鋤入姫命を先とし倭姫命を後にしている。
(1)6世孫 
大倭姫、宇那比姫命、亦名、天造日女命、一伝、竹野姫命、亦伝、大海靈姫命、亦伝、日女命云々
(2)9世孫 乙彦命(彦國玖琉命) 
妹 日女命、亦名、中津姫命、亦名、倭迹迹日百襲媛命、亦名、神大市姫命、一云、千千速日女命、一云、日神
(3)10世孫 
妹 大倭姫、一云、天豊姫命、一云、豊鋤入姫命、一云、豊受姫荒魂命、一云、大御気津姫命、一云、大宜都日女命、一云、天照姫命、亦云、五百野姫命、一云、葛木高額日女命、一云、息長水依日女命
(4)11世孫 小登與命(御間木入彦命)
妹 日女命 亦名、稚日女命、亦名、日神荒魂命、亦名、豊秋津姫命、亦名、御気津姫命、亦云、宮簀姫命、一云、玉依姫命、一云、小豊姫命、一云、豊受姫命、一云、活玉依姫命、一云、倭国香姫命、一云、倭姫命、一云、向津姫命、一云、大海姫命、一云、倉稲魂命
※ 私見
 海部氏勘注系図には11世孫の妹として日女命またの名「小豊姫命」とある。この「小豊姫命」を魏志倭人伝の台与(トヨ)とする説がある。さらに、11世孫の妹の日女命は、亦名として、稚日女命、倭姫命とも記されている。私は稚日女命、倭姫命を卑弥呼とするが、勘注系図では小豊姫命(台与?)のまたの名として稚日女命、倭姫命が書かれている。しかし、さらに、またの名として玉依姫命、日神荒魂命、豊受姫命、活玉依姫、倭国香姫、倉稲魂命が記載されている。玉依姫命は神武天皇の母親である。日神荒魂命は天照大神の別名である。豊受姫命は瓊々杵命と一緒に降臨した姫である。活玉依姫は大物主と結婚した姫である。倭国香姫は倭迹迹日百襲媛命の母親である。倉稲魂命は私見では豊受姫に比定している。
 これがみな同一人物ですか。「そんな馬鹿な」ですよ。これは見る者を混乱させるために記載したものと思われる。籠神社の宮司は、「主祭神は717年までは火火出見命であったがわけあって彦火明命に変えている」という。717年は日本書紀の編纂中である。「わけあって」とは藤原氏による生きるか死ぬかの威圧であった。今の海部氏勘注系図が書かれたのは日本書紀の編纂中である。日本書紀に合うように書かかされている。正しい系図が藤原氏の手に渡ったら書き直せと言われるに決まっている。従わなければ殺される。だから見る者を混乱させて書き直せと言われない書き方をした。日本書紀の順序に合っているから藤原氏の検閲をパスした。
 日本書紀は「天照大神は崇神天皇皇女の豊鋤入姫命から離され、垂仁天皇皇女の倭姫命に託された」とする。勘注系図では10世孫の妹に「豊鋤入姫命」の名が見え11世孫の妹に「倭姫命」の名が見える。「豊鋤入姫命」が先で「倭姫命」が後という順序は日本書紀に合っている。しかし本当は「倭姫命」が先で、「豊鋤入姫命」が後であり別々の巡行であった。本当の系譜は、「倭姫命」が9世孫(孝元天皇)の妹であり、「豊鋤入姫命」は13世孫(景行天皇)の妹であった。本来13世孫の妹の豊鋤入姫命を10世孫の妹に持ってきて、本来9世孫の妹の倭姫命を11世孫の妹に持ってきた。これで順序は逆になる。
 6世孫に大倭姫があるが、13世孫の妹の大倭姫命と10世孫の妹の大倭姫命との関係を見破った藤原氏に書き直すように言われ、13世孫の妹の大倭姫命を消してありもしない6世孫の大倭姫を書き加えたと思われる。
 勘注系図はこれ以上深入りすべきではない。ありもしない神名に惑わされ泥沼にはまり込む。


鳥取県は東アジアからの移民を受け入れる玄関口であった。列島の王もここに居た。

 鳥取県は東アジアからの移民を受け入れる玄関口であった。列島の王もここに居た。

 邇邇芸命の「この地は 韓国に向きて、笠沙の御前を真来通りて  朝日の直刺す国 夕日の日照る国なり」について

1 「韓国に向きて」とは
 「韓国」とは朝鮮半島にある韓国(新羅)のことである。
 韓国(新羅)から人力船で出港すると海流(リマン海流と対馬海流)に流されて鳥取県に到着する。渡来人は葦原中津国(橘)や、東郷池(難波津)や、青谷(上寺地遺跡)や、湖山池や但馬にも到着していた。鳥取県は海流(リマン海流と対馬海流)の流れによって韓国に向いていた。
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 伊邪那岐(大神)は人口を増やしたかったので徐福(天照大神)に多くの少年少女を連れてくるように言った。天照大神や素戔嗚やその子の大国主も祖神(伊邪那岐)の遺志を受け継ぎ、列島の人口を増やすことを考えていた。天武天皇の頃まで倭朝廷は祖神(伊邪那岐)を祀っていたので、列島の人口を増やすことが第一であった。天照大神(徐福)の時から列島の国造りをするために水田稲作を広めて、常世の国(ベトナムや雲南や広州や長江流域)より、先進技術を持った人々を列島に入植させていたが、多くは朝鮮半島(韓国)経由で鳥取県に渡来していた。したがって、邇邇芸命が降臨したときには祖神(伊邪那岐)の遺志を受け継いだ天孫族の事業(人口を増やすこと)にとって韓国(新羅)は非常に大事な国であった。
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 葦原中津国(橘)にも、韓国(辰韓)からの船がひんぱんに来港していた。大国主のあと邇邇芸命も父の天忍穂耳(大物主)を手伝って国造りをしていた。

2 国立科学博物館の世界各地の古代人のDNA分析の第一人者である篠田謙一副館長は青谷上寺地遺跡から出土した32体の人骨のDNA分析をした。
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 篠田氏は「国際都市の場合、こういう出方をする」と言った。青谷上寺地遺跡のそのほかの遺物より、韓半島(新羅)から直接青谷に渡来していることが判った。慶州の古墳は円墳であり、鳥取県中部の古墳も円墳である。
 青谷で亡くなった32名の出身地は東アジアの広範な地域から韓国(新羅)を出港し海流に乗って鳥取県の青谷に上陸したことが解かった。縄文人のDNAが多少混ざっているのは、渡来してから数代経っているからである。
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 青谷は国際都市であった。

3 「笠沙之御前を真来(巻き)通りて」について
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 韓国(辰韓)からの船がひんぱんに来港していたから、主語は韓国(辰韓)からの船である。

4 鳥取県中部は国際都市であり、都であった。
 青谷の手前にある東郷池(師木津=柏)や葦原中津国(御真津=橘)にも東アジアの広範な地域から多くの渡来人が訪れていたことは容易に察しがつく。
 「義楚六帖」・「一切経」・「大正新脩大蔵経」などに記載されている「倭国在東海中」とは「倭国は日本海沿岸にある」ことを意味している。新羅の慶州の古墳は円墳であり鳥取県中部の古墳も97%(全体で2395基)は円墳である。青谷上寺地遺跡の殺傷痕のある多数の人骨は倭国大乱の痕跡であった。倭国とは笠沙之御前(北条砂丘)や葦原中津国(橘)のあった鳥取県中部(青谷も含む)のことであった。
 弓月君の民も韓国(辰韓)経由で鳥取県中部に渡来し上陸していた。弓月君の民の渡来ルートは百済から北部九州ではない。百済から出港した場合、新羅は止めることができない。新羅から出港して鳥取県中部のルートなら新羅に行くまでに百済は止めることができる。藤原氏はここでも原古事記にあった新羅と百済を入れ替えている。応神天皇(葛城襲津彦)の皇居は笠沙之御前の手前の以前は島であった軽島之明宮(倉吉市穴窪)にあった。

5 渡来人はなぜ九州上陸を避けたのであろうか。
 納豆の起源は中国雲南省という説がある。少彦名も雲南省あたりから渡来して国造りを手伝っていた。神祇志料(明治6年)に「・・・大己貴命、少名毘古那命、須勢理姫命、伯耆国大神山に御座して・・・」とある。また、出雲風土記では「伯耆国大神岳」とする。大神山(岳)は私見では北栄町の茶臼山(久米郡大神郷の山)であるが、少彦名は鳥取県中西部(伯耆国)に住んでいた。少彦名は北栄町の茶臼山から常世国に帰った。常世国とは揚子江上流の雲南省あたりであった。
 「神武の兄の御毛沼命は常世国に行った」と古事記にあるが、何のために常世国(雲南省)に行ったのだろうか。それは、それまで九州に上陸する渡来ルートを変更させるためであったと思われる。
 人口を減らす一族(蝦夷・鬼八)が九州にいた(吉野ヶ里遺跡はその中心地であった)ので、蝦夷・鬼八を平定するために神武4兄弟は九州に向かい、九州の蝦夷・鬼八を平定した。九州の福岡県・佐賀県・鹿児島県で出土した紀元前100年頃の鉄鏃は神武4兄弟が放った鉄鏃と思われる。
 神武の兄の御毛沼命は常世国まで行き、渡来ルートを変更させた。それ以来、渡来人は半島の新羅を経由して日本海(東海)沿岸に渡来するようになった。

6 以下を記述したときは、NASAから資料提供をうけたドイツの「洪水マップ」の存在を知らず、勘に頼っていた。「洪水マップ」を使うと、海抜4mで笠沙之御前(北条砂丘)が現れる。
 北栄町大島を中心とする葦原中津国の前は北条砂丘(鳥取砂丘の次に広い砂丘)が広がっており、東園・西園集落に海抜10m~20m位の長い砂丘地があり、当時はこの砂丘地が笠形であった(今は造成されて、あちこち崩されている)。東園・西園集落は葦原中津国の入口(橘の小門=瀬戸集落と原集落の間)を出た真北にあり笠沙之御前(北条砂丘)の西側に位置する。
 東園・西園集落の東にある松神集落(松神神社の祭神は木花咲耶姫)で木花咲耶姫は瓊々杵命(下神集落の三輪山に来ていた日向御子)に求婚された。
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 東園の砂丘地。ここで海抜15mくらい。
「笠沙之御前を真来(巻き)通りて」とは、海と葦原中津国の湾とをつなぐ入口が東園・西園集落の高い砂丘地(笠沙之御前)を回らねば、船で入って来れなかった。そのような位置に東園・西園集落の高い砂丘地(笠沙之御前)は今でもなっている。「韓国からの船が笠沙之御前を真来(巻き)通りて入ってきた」ということである。
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 西園の砂丘地。ここで海抜20mくらい。






神功皇后の民間伝承のもとは豊鋤入姫命(台与)の伝承であった

 河村哲夫氏は「神功皇后の謎を解く」(原書房 2013年出版)において「神功皇后を祭る神社に加え、伝承が由来になった地名、腰掛けたと伝わる石などを含めると山口、福岡、佐賀、長崎、大分、宮崎6県に3千ヵ所もあった」とする。

1  神功皇后実在説の根拠
(1)民衆 名もない民人たちが、伝承という形で脈々と地域の歴史を伝えてきた。
(2)大和朝廷に押しつけられた虚構の話を地元の伝承として残した、というような伝承は一件もない。まさに、神功皇后そのものの伝承として地域に伝えられている。
(3)地域の人々が『日本書紀』『古事記』を読んで、それに合致するような伝承を捏造したというような説は成り立たつはずもない。『日本書紀』『古事記』が一般民衆のレベルまで流布してはいなかったからである。
(4)広域的な通信手段を持たない古代人が、壱岐・対馬を含む北部九州の広い範囲で相互に連絡を取り合って神功皇后伝承を創作することは不可能である。

2  神功皇后非実在説の根拠
 「日本書紀」によると、神功皇后は3世紀の古墳時代にいた人物、となっている。しかし、3世紀というのは日本では弥生時代である。まだ百済国はできていない。また、神功皇后の、行動について、あまりにも、超人的な行動や、神がかり的な行動がたくさんある。たとえば、三韓征伐のときに、懐妊していたので鎮懐石を腰にはさんで出征し、帰国してから出産(産み月を延ばした)し、15ヶ月も妊娠していたという話しや、遠征のときに、魚の助けによって船を進めたが、勢い余って波とともに、新羅の国の半ばまで押し上がり、驚いた新羅王が降伏したとか、という話しなどである。まるで、おとぎ話の世界にいるような話しがたくさん残っている。また、伝承でもあとで作られたことを示す史料もある。

3  壱岐と対馬の伝承
 壱岐に13ヶ所  
「風本→勝本」「東風石」「聖母宮」「馬蹄石」「印通寺」「錦浜」「衣かけ石」「七湊」「夕部」「御掛けの石」「御手洗川」「柄杓江」「湯ノ本温泉」など
 対馬に15ヶ所
「腰掛石」「神住居神社」「雷神社」「雷浦」「与良祖神社」「桜橋公園(志良石)」「笠渕・截裳渕」「砥石渕」「阿須浦・阿須神社」「綱掛崎」「八点島」「千尋藻・入彦神社」「櫛」「胡禄神社」「本宮神社」など 
※ここにある伝承地でもあとで藤原氏(八幡神社)によって造られたと思われる伝承がある。

4 私見
(1) 河村哲夫氏は「大和朝廷に押しつけられた虚構の話を地元の伝承として残した、というような伝承は一件もない。まさに、神功皇后そのものの伝承として地域に伝えられている」とされる。
 鳥取県湯梨浜町宮内集落の倭文神社は伯耆国一宮で昨年は中央から雅楽の演奏に来ていた。また平安後期(1100年頃)に埋納された国宝の経筒(伯耆一宮経塚から銅経筒、金銅仏、銅鏡、檜扇、短刀、刀子、玉類、銅銭、漆器などが出土した)も発掘されている。京都の藤原氏はこの神社を重要視していた。伝承では「高姫(下照姫)が国譲りで出雲からこちらに来て、助産婦の仕事をしていた。」高姫(下照姫)に仕えた者たちの子孫も数軒あるという。高姫(下照姫)が涙ぐんでいた様子まで伝承されている。
 伯耆国に宮内は3ヶ所しかない。2ヶ所の神社は孝霊天皇を祀った神社である。では残る1ヶ所の倭文神社も孝霊天皇を祀っていたのではないか。また、宮内遺跡からは弥生時代後期の日本で一番長い鉄刀が発掘されている。
 湯梨浜町宮内に行って聞いてみると、「倭文神社には高姫(下照姫)がいた。伝承も残っている。宮内に遺跡などない。きっと、橋津に古墳があるからそこのことだろう。橋津にいってみたら。」という返事が返ってきた。あくまでも「調べるな」といった口調であった。また、倉吉市大谷の長老に聞いた時もあくまでも「四王寺があるから四王寺山という」の一点張りであった。
 河村哲夫氏はここで「はい、そうですか」と引いてしまっている。三千ヶ所の伝承の中に大和(藤原)朝廷に押しつけられた虚構の話を地元の伝承として残した、というような伝承は一件もない」としておられるが、藤原氏は伝承を創設する名人である。
 倉吉市寺谷に天稚比古と住んでいた高姫(下照姫)は天稚比古が亡くなってから夫の出身地の高天原(蒜山)に近い倉吉市志津の倭文神社で助産婦の仕事をしていた。藤原氏は志津の伝承を宮内に移し、孝霊天皇一族の伝承を隠した。
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 藤原氏は創作伝承を守るための人員を京都から派遣し重要な集落の住民として古くより(統一新羅滅亡の931年頃より)住まわせている。百済出身の京都の藤原氏は新羅を恐れていた。京都で検非違使をしていた山田氏は931年に北条山田八幡神社を鳥取県北栄町北尾に創建した。「北条」の地名は北の京(条里制)と付けたかったのだろうが、北京とはできなかった。「北条」という地名も山田氏が付けたと思われる。
 高姫(下照姫)を登場させて八橋の地名由来を創作して笠縫邑を隠したのも京都の藤原氏であった。鳥取県南部町手間山の赤猪伝説も倭国大乱の激戦地の手間山の伝承を隠すために藤原氏によって創作された。手間山には妻木晩田から逃げてきた出雲族(兄の八十神)がおり、手間山のふもとには、孝霊天皇や倭建命に従っていた大国主の14世孫の武牟口命がいた。
(2) 神武天皇に関係する伝承に「神武天皇が生まれた狭野神社・15歳で宮を遷した宮崎神宮・神武天皇が祈願した都農神社・矢研の滝・立磐神社の腰掛岩・美美津港のおきよ祭り・早吸日女神社」などがある。「速吸の門」は明石の多くの弥生遺跡より間違いなく明石海峡である。したがって、「速吸の門」は豊予海峡ではなく、豊予海峡までは藤原氏の作り話であった。神武天皇の腰掛岩も創作である。神功皇后の腰掛岩も創作である。 河村哲夫氏は「大和朝廷に押しつけられた虚構の話を地元の伝承として残した、というような伝承は一件もない」としておられるが、騙されているだけである。私は騙されない。神社庁に輪をかけたように教育委員会が加担しているのでたちが悪い。明治政府は藤原政府から始まっているから、神社庁も教育委員会も藤原氏の流れにある。
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(3) 倭姫命や倭建命や豊鋤入姫命や武内宿禰は実在していた。原古事記には彼らの旧事も書いてあった。対馬海流があるため倭(鳥取県中部)朝廷にとって九州は中国に朝貢するために通らなければならない大事な場所であった。それは神武天皇の時代から同じであった。豊鋤入姫命(台与)と武内宿禰も九州の平定をしている。また、稚日女命を祀る神社が九州の各地にあるので、倭姫命や倭建命も九州に来ている。熊襲を平定して伊万里から船を出している。佐賀県伊万里市黒川町の若宮神社(祭神 若日孁尊=稚日女命)の由緒に神功皇后が出てくるので、豊鋤入姫命(台与)が三韓に向けて出発したのも伊万里からと思われる。奈良時代になっても豊鋤入姫命(台与)と武内宿禰や倭姫命と倭建命の伝承は残っていた。
 神功皇后は百済色が濃厚である。おそらく、百済が新羅を攻撃した百済の伝承を原古事記にあった豊鋤入姫命(台与)と武内宿禰が三韓に行った旧事を改ざんして創作したのが神功皇后と思われる。倭国(鳥取県中部)の女王の豊鋤入姫命(台与)が建国以来、兄弟国であった新羅を攻撃するわけがない。
(4) 百済王朝(藤原氏)にとって応神天皇(葛城長江襲津彦)は特別な存在であった。百済が最初に倭国に朝貢したときの天皇であったからである。不比等は特別な存在の応神天皇を祭神とする八幡神社を創建することにした。不比等は女王であった豊鋤入姫(台与)や倭国13代大王であった武内宿禰を応神天皇に関係する神として八幡神社の祭神にした。
 太安万侶は原古事記を天武天皇の皇子の穂積大王に渡したつもりであったが、不比等に渡ってしまった。不比等は原古事記に記載されていた女王の豊鋤入姫(台与)の段を百済色の濃い神功皇后の段に書き換えた。13代武内宿禰大王の代わりに成務天皇を創作した。14代には応神天皇の父親として仲哀天皇を創作した。本来14代であった仁徳天皇は16代とした。特別な存在の応神天皇の15代は動かすことをしなかった。応神天皇の在位は354年~394年と思われる。13代の武内宿禰大王と15代の応神天皇(葛城長江襲津彦)は八幡神社や古事記・日本書紀に利用されているが、倭国(鳥取県中部)に皇居のあった正統な天皇であった。豊鋤入姫命(台与)の本拠地も鳥取県中部(倉吉市鋤集落)にあった。            
(5)  原古事記には、倭姫命(卑弥呼)や豊鋤入姫命(台与)の段があった。倭姫命(卑弥呼)や豊鋤入姫命(台与)の民間伝承も多くあった。不比等は原古事記の記述や伝承を消したり改ざんしていったが、倭姫命(卑弥呼)や豊鋤入姫命(台与)の伝承は広範に渡り、すべてを消したり改ざんすることは不可能であった。そのために八幡神社を造った。神社に住民を集めて、倭姫命(卑弥呼)や豊鋤入姫命(台与)の伝承を聞き「その姫の名は神功皇后である」と暗示にかけていった。倭姫命(卑弥呼)の伝承も神功皇后に吸収させた。そして八幡神社の祭神を神功皇后とし、古事記・日本書紀に新羅に敵対する神功皇后の段を作った。八幡神社は全国に4万4千社あるという。八幡神社以外の神社よりも多い。
 倭王朝と亡命百済王朝とは642年より列島に並立し、734年に亡命百済王朝(日本)が倭国を呑み込むが、それ以前から呑み込む準備をしていた。亡命百済王朝はそれまでに崇神天皇や倭姫命(卑弥呼)によって造られていた全国の神社を呑み込んで、自分たちの神社ネットワークを新たに創っていった。それが八幡神社である。

豊鋤入姫命(台与)は都を鳥取県中部(倭)にもどした

 景行天皇(屋主忍男武雄心命)は倭姫命が亡くなった後、都を奈良の纒向に移したが豊鋤入姫命は都を鳥取県中部(倭)に戻した

1 魏志倭人伝に「卑弥呼は死に、塚を大きく作った。直径は百余歩。徇葬者は男女の奴隷、百余人である。さらに男王を立てたが、国中が不服で互いに殺しあった。当時千余人が殺された。また、卑弥呼の宗女、十三歳の壹與を立てて王と為し、国中が遂に安定した。張政たちは檄をもって壹與に教え諭した。壹與は大夫の率善中郎将、掖邪拘等二十人を遣わして、張政等が帰るのを送らせた」とある。
 「梁書倭国伝」「北史倭国伝」では「臺與」と記述されている。「壹與」は正しい表記ではなく「臺與」(とよ)が正しいと思われる。国史で「とよ」とは豊鋤入姫である。もともと倭姫命と豊鋤入姫命の巡行は時代も目的も違うものであった。藤原氏は伊勢神宮の由緒を創るために、同じ目的で引き継いだとする倭姫命世記を創作した。順番も書き換えた。日本書紀の系譜も書き換えた。

2 10代天皇から12代天皇までの問題となる系譜
⑴ 崇神天皇(本拠地は岡山県津山市中山神社)
皇后:御間城姫(御真津比売命) - 大彦命(孝元天皇の皇子)女
活目入彦五十狭茅尊(垂仁天皇)
妃:遠津年魚眼眼妙媛 - 紀伊国荒河戸畔女(津山市出身)
豊鍬入姫命(史実は垂仁天皇皇女であった)
⑵ 垂仁天皇(本拠地は岡山県美咲町大宮神社)
皇后(後):日葉酢媛命(丹波道主王の女)
五十瓊敷入彦命
大足彦忍代別尊(景行天皇)
倭姫命(史実は孝霊天皇皇女であった)
妃:迦具夜比売(かぐやひめ)。 - 開化天皇の曾孫(ひまご)。かぐや姫のモデル説有
袁那弁王
⑶ 景行天皇(屋主忍男武雄心命)皇居は纒向日代宮
皇后(前):播磨稲日大郎姫 - 若建吉備津日子女 この位置は津山市にいた影姫であった
大碓命 - 身毛津君(牟宜都国造)等祖
小碓命(倭建命=若日子建吉備津日子) この位置は武内宿禰であった
妃:迦具漏比売(かぐろひめ)。 - 倭建命の曾孫(ひまご)。
大江王(彦人大兄)
 古事記によれば80人の御子がいたことになっている。また、古事記では「倭建命(小碓命)の曾孫(ひまご)の迦具漏比売(かぐろひめ)が景行天皇の妃となって大江王(彦人大兄)をもうける」とするなど矛盾があり、このことから景行天皇と倭建命との親子関係に否定的な説がある。
 また、景行天皇自身に纏わる話は全くと言ってよいほど出てこないので、景行天皇が実在した可能性は低いとする説も少なくない。

3 私見
 景行天皇は106歳まで生きたのだから皇子のひ孫を「妃」と出来るかもしれない、という説があるが、不可能である。迦具夜比売(かぐやひめ)と迦具漏比売(かぐろひめ)は姉妹であったと思われる。「迦具夜比売(かぐやひめ)は開花天皇の曾孫(ひまご)」とある。これは倭建命と開花天皇が同一人物であり、倭建命は景行天皇の曽祖父くらいの先祖であったからである。
 このように、古事記・日本書紀の系譜は改ざんが多い。豊鋤入姫命も倭姫命も改ざんされている。豊鋤入姫命の父は垂仁天皇であり、倭姫命の父は孝霊天皇であった。
 また、藤原氏の八幡神社の祭神にするために原本では武内宿禰と書かれていたのを倭建命と入れ替えた。したがって、大碓命・小碓命の物語も大吉備津日子(崇神天皇)と若日子建吉備津日子(開花天皇)をモデルにした創作であった。小碓命(倭建命)の位置には武内宿禰が書いてあった。
 景行天皇も実在せず、その時の倭国大王は屋主忍男武雄心命であった。

4 魏志倭人伝によると「国中が服さず、更に互いが誅殺しあった」とある。なぜ、男王に服さなかったのであろうか。
 崇神天皇、垂仁天皇の活動本拠地は岡山にあったが、皇居は鳥取県湯梨浜町(師木)に置いていた。景行天皇(屋主忍男武雄心命)は皇居を奈良の纒向に遷し子孫を増やすことに専念していた。
 倭姫命が女王の時代、神道の各地の代表者は奈良の纒向に集まり倭姫命の祭祀に参加していた。しかし、倭姫命が亡くなり、景行天皇(屋主忍男武雄心命)が纒向に立つと倭姫命のようにうまく祭祀ができなかった。倭朝廷に深く関係する一族のいた地域では失望して誅殺しあった。景行天皇(屋主忍男武雄心命)は国中が不服の状態を見過ごすことはできず倭姫命に代わる女王を立てなければならなかった。景行天皇(屋主忍男武雄心命)は妹の豊鋤入姫に誅殺しあっている地域を巡行させ、鳥取県中部(倭)に本拠地を置かせることにした。
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 豊鋤入姫(台与)は鳥取県北栄町下神の三輪神社で祭祀をしたあと、倉吉市鋤集落を本拠地にした。
 豊鋤入姫命の母は遠津年魚眼眼妙媛であり紀伊国荒河戸畔の娘である。紀伊国のもとは御真木国であり津山市であった。垂仁天皇の本拠地は岡山県の美咲町大宮神社にあったから津山市出身の遠津年魚眼眼妙媛との間にできた豊鋤入姫命は岡山県美咲町で生まれた。

5 豊鋤入姫の甥の武内宿禰は13代倭国大王となり、鳥取県北栄町原の元野神社に皇居をおいた。父親ほどではないが多くの御子を作った。
 武内宿禰の生まれについて景行天皇紀によると、天皇は紀伊(御真木国=津山市)に行幸して神祇祭祀を行おうとしたが、占いで不吉と出たため、代わりに屋主忍男武雄心命が遣わされた。そして武雄心命が阿備柏原(津山市)にて留まり住むこと9年、その間に影媛との間に儲けたのが武内宿禰であるという。古事記では「木国造の宇豆比古の妹の山下影日売を娶って建内宿禰(武内宿禰)を生む」とある。
 紀氏(木氏)系図では、孝元天皇皇子に彦太忍信命、その子に屋主忍雄命、その子に武内宿禰と甘美内宿禰とする系譜を記載する。
 梁書倭伝に「また卑彌呼の宗女、臺與を立てて王にした。その後、また男王が立ち、並んで中国の爵命を受けた」(復立卑彌呼宗女臺與為王 其後復立男王並受中國爵命)とある。
 この男王は武内宿禰大王であった。記紀の神功皇后のモデルは豊鋤入姫命と思われるが、百済色に強く染めてあり、新羅と兄弟国であった倭の姫とはかけ離れている。百済が新羅を攻めた時のことを原古事記にあった豊鋤入姫の事績を用いて創作した物語が神功皇后ではないかと思われる。藤原氏による改ざん創作物語である。

倭姫命世記において豊鋤入姫の巡行した本当の比定地

 倭姫命世記において豊鋤入姫の巡行した本当の比定地

 倭姫命世記に「倭笠縫邑に磯城の神籬を立て、天照大神と草薙の剱を奉遷し、豊鋤入姫命に奉斎せしめた。但波の吉佐宮に遷幸し、倭伊豆加志本宮に遷り、木乃国奈久佐浜宮に遷り、吉備国名方浜宮に遷り、倭弥和乃御室嶺上宮に遷った」とある。
 豊鋤入姫命は、倭笠縫邑、但波の吉佐宮、倭伊豆加志本宮、木乃国奈久佐浜宮、吉備国名方浜宮、倭弥和乃御室嶺上宮を巡行した。これら6か所の現在の比定地はどこだろうか。

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(1)倭の笠縫邑(鳥取県琴浦町八橋)
 倭笠縫邑の比定地は奈良県桜井市の檜原神社とする。楯縫神社の由緒に「旧郷名にちなみ楯縫神社とした」とあるので、立縫郷は楯縫郷であった。楯を立に変えている。立見集落があるが、元は楯見であり、製品となった楯を検査するところであった。
 琴浦町八橋の隣に笠見集落がある。これも、製品となった笠を検査するところであった。隣の八橋が笠縫邑であった。八橋の地名由来は笠縫邑を隠すために創られた。倭笠縫邑とは鳥取県琴浦町八橋集落であった。
(2)但波の吉佐宮(京丹後市丹後町の竹野神社)
 但波の吉佐宮の比定地は、宮津市の真名井神社や福知山市の皇大神社や舞鶴市の笶原神社や京丹後市の竹野神社がある。孝霊天皇一族は倭国大乱のときに、但馬の竹野川流域に疎開した。竹野川流域には孝霊天皇一族(倭姫命も含む)の子孫が住んでいた。但波の吉佐宮とは京丹後市丹後町の竹野神社であった。
(3)倭の伊豆加志本宮(鳥取県倉吉市長谷集落長谷神社)
 奈良の比定地(奈良県桜井市初瀬の長谷寺や与喜天満神社や長谷山口坐神社など特定できていない)は泊瀬地域にある。泊瀬のもとは倉吉市の長谷である。倉吉市長谷集落は神武天皇が穿って道をつけた途上にある由緒ある地である。倭伊豆加志本宮とは鳥取県倉吉市長谷集落長谷神社であた。
(4)木乃国奈久佐浜宮(津山市二宮の高野神社)
 紀の国は和歌山だが木の国は岡山県津山市であった。木乃国奈久佐浜宮の比定地は和歌山市毛見の濱宮とする。木の国は鳥取県智頭町だが御真木国は津山市であった。神武天皇が名草戸畔を誅した名草邑は岡山県津山市二宮であったから二宮の高野神社と思われる。津山に浜はないがこれは和歌山の浜に名草邑を創った藤原氏の創作である。木乃国奈久佐浜宮は津山市二宮の高野神社であった。
(5)吉備国名方浜宮(倉敷市上東)
 吉備国名方浜宮の比定地は和歌山に二ヵ所、岡山に五ヵ所(総社市福井の神明神社や倉敷市真備町妹の穴門山神社など)、広島に一ヵ所の計八ヵ所ある。倉敷市上東は古墳時代は浜であった。ここで奈良の纏向遺跡と同じく9,606個の桃核が出土している。豊鋤入姫はここで祭祀をした。吉備国名方浜宮は倉敷市上東であった。
(6)倭の弥和乃御室嶺上宮(鳥取県北栄町下神の三輪神社)
 倭の弥和乃御室嶺上宮の比定地は奈良県桜井市三輪山の大神神社、高宮神社とする。上は「かみ」と読むそうである。鳥取県中部で上とは山側(南)を意味する。鳥取県中部にあった三輪神社は三輪山(弥和乃御室嶺)の上(南)にある。奈良に上(かみ)・下(しも)の慣例はない。倭弥和乃御室嶺上宮は鳥取県北栄町下神の三輪神社であった。

倭建命の白鳥陵は鳥取県湯梨浜町宮内の狐塚古墳であった

 倭建命の白鳥陵は鳥取県湯梨浜町宮内の狐塚古墳であった。


1 東郷池にはコブ白鳥がいた。

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 エサをくれると思ったのか、寄ってきた。向うは望湖楼と千年亭。 

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 子育て中の東郷池のコブ白鳥(養生館の横で)。


2 鳥取県湯梨浜町宮内の狐塚古墳(前方部が池側を向いている)

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 この前方後円墳は「前期古墳時代の特徴的な外形を示している」ので古墳時代前期と思われる。古墳時代前期がいつから始まるかはまだ流動的であるが考古学では3世紀中頃という説に落ち着いてきている。4世紀とするのは一昔前の考古学である。倭建命は188年頃に亡くなっているので遅くとも3世紀初頭には築造されている。しかし前方後円墳だから古墳時代前期ということになる。

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 倭建命(若日子建吉備津日子命­­­=稚武彦命)は前方部の池の畔で白鳥にエサをやったのではないか。それを、卑弥呼(夜麻登登母母曾毘売命=倭迹迹日百襲姫命)はじめ周りの者が見ていた。


3 「卑弥呼は死に、塚を大きく作った。直径は百余歩。徇葬者は男女の奴隷、百余人である。さらに男王を立てたが、国中が不服で互いに殺しあった。当時千余人が殺された。また、卑弥呼の宗女、十三歳の壹與を立てて王と為し、国中が遂に安定した。張政たちは檄をもって壹與に教え諭した。壹與は大夫の率善中郎将、掖邪拘等二十人を派遣して、張政等が帰るのを送らせた」とある。

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 卑弥呼が亡くなったのは248年である。倭建命は188年頃亡くなっている。安楽島町の松の鼻古墳は湯梨浜町宮内の狐塚古墳を意識して造られている。どちらも前方部が水際にある。この二つの古墳の被葬者は姉弟であった。

「塚の径百余歩」は張政等の誰かが実際に歩いて測っている。



天孫降臨は2回に分けて行われた。1回目の饒速日命と天照大御神と月読命ほか大勢の降臨

 天孫降臨は2回行われた。最初は饒速日・天照大神・月読命ほか大勢であった。 


1 鳥取県江府町鏡ヶ成から降臨したのは瓊々杵か饒速日か。

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 高天原は蒜山高原であった。饒速日は江府町江尾神社の祭神であり、瓊々杵は長田神社と加茂神社の祭神になっている。

 鏡ヶ成は猿田彦が鏡を光らせていたところであり、天鈿女がその理由を聞きに訪れたところである。鳥取県江府町鏡ヶ成から降臨したのは同じ江府町の江尾神社にいた饒速日と思われる。天照大神と月読命は5伴緒(天鈿女を含む)と思金神、手力男神、天石門別神とともに三種の神器を副えて、饒速日とともに鏡ヶ成から関金の神田神社に降臨した。江尾神社と下蚊帳と鏡ヶ成は江府町に属しており同じ町内にある。饒速日は江尾から下蚊帳で蒜山高天原にいた八百万神と合流し、鏡ヶ成に上がって、関金の神田神社に降臨した。

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 瓊々杵はわざわざ加茂神社の地から鏡ヶ成まで行かなくても近くの犬挟峠を越えて矢送神社に降りればよい。矢送神社にはすでに降臨していた天児屋根と天太玉が待っていて矢送神社で瓊々杵を守った。矢送神社の祭神は五伴緒のうち天児屋根と天太玉だけである。豊受姫と和久産巣日神は幼い天香語山や瓊々杵の乳母の役割りを果たしていたのかもしれない。天忍穂耳は素戔嗚と同じように木国(智頭)か御真木国(津山市)で瓊々杵を生んだのではないだろうか。瓊々杵は旭川の下流から来たように思われる。従って、瓊々杵は大山町上萬の壱宮神社で生まれたのではなく、壱宮神社で生まれたのは饒速日の可能性が高く、壱宮神社の祭神は饒速日であった。


2 先代旧事本紀にある饒速日の降臨

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(1)「記紀の天孫降臨」より「先代旧事本紀の天孫降臨」の記述のほうが史実に則しているように思われる。天孫降臨は史実では2回行われた。先代旧事本紀では、まず最初に饒速日が天降ったのであり、天照大神・月読命・五伴緒など大勢もその時降り立った。
 ただ「船長が梶取等を率いてつかえた。饒速日尊は天磐船に乗って・・・」は京都で暇を持て余していた藤原氏が書いた空想科学小説である。また、「熊野で毒気にあたった」とあるのも藤原氏の手が加わっている。原古事記には「イワレヒコの福山市・尾道市を中心とした活動」が書かれていた。
 饒速日ははじめ河内国(日下邑あたり)の河上の哮峰(倉吉市八幡神社のある峰)に到着し、やがて大倭(鳥取県中部)の鳥見の白庭山(倉吉市の向山)に移った。この鳥見の白庭山は通説では、奈良県桜井市の外山のあたりと言われている。しかし、天照大神は鳥取県琴浦町伊勢野に降臨していたし、五伴緒の降り立った場所も鳥取県中部に特定できるため、饒速日も鳥取県中部に降臨している。鳥見の白庭山とは倉吉市の向山(夏谷)であった。
 饒速日は神田神社までは天照大神たちと一緒に降臨した。河内国とあるが、これは日下邑あたり(北は倉吉市清谷から南は倉吉市上余戸までは日下邑であった)であった。河内国の河上の哮峰とは、それまでに素戔嗚・宇迦之御魂(須勢理姫)・大国主の住んでいた現在倉吉市八幡神社のある峰であった。宇迦之御魂・大国主は宇迦之山(北栄町の茶臼山)に行き少彦名とともに西日本の各地を訪れて国造りをした。少彦名がいなくなったので大国主は困っていた。宇迦之御魂(須勢理姫)は素戔嗚にそのことを告げた。
 倉吉市八幡神社のある哮峰に饒速日・天忍穂耳・猿田彦・天香語山・豊受姫・和久産巣日神たちが高天原から降ってきたので素戔嗚は饒速日に天璽瑞宝十種を授けるとともに、饒速日の父の天忍穂耳に大国主の国造りに協力してくれるように頼んだ。天忍穂耳(大物主)と猿田彦は船で茶臼山の東の内海に至り、大国主に会ってから、それぞれ北栄町下神の三輪山と隣の松神を本拠地とした。

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 饒速日は倉吉市余戸谷町の清熊稲荷神社の峰(哮峰)にしばらく居て天若比古の報告を待っていた。天若比古は饒速日の降臨コース上(倉吉市寺谷の矢の宮神社)にいたため使いを出されたが、使いを殺したので殺された。饒速日は倉吉市の向山(鳥見の白庭山)に降臨し定住した。

 茶臼山(伊那佐山)にいた大国主は天児屋根・太玉命・玉祖命・天宇受売(5伴緒の4人)と一緒に湯梨浜町長瀬高浜(多芸志)に、思金神は湯梨浜町長和田に降臨した。四伴緒と大国主は多芸志(鳥取県湯梨浜町長瀬高浜と久留)に住んだ。久留神社の祭神は大国主という説が有力である。大国主は国坂神社・下神の三輪山との間を行き来していた。久留神社の祭神は天児屋根ではなく大国主であった。長瀬神社の祭神は天児屋根・天太玉・天鈿女である。玉祖命は祭神になっていないが長瀬高浜から移動することなく玉を作っていた(長瀬高浜遺跡発掘調査報告書より)。饒速日が亡くなってから、天児屋根と天太玉は瓊々杵を迎えに矢送神社に帰った。

(2) 出雲神族の富氏の口伝によると「ホヒ(天穂日)は出雲神族と婚姻関係を結んで、後続部隊の手引きをした。出雲神族の反乱を防ぐため、神武から数代の王は、出雲の王家の娘を妻に迎えた」とある。先代旧事本紀に「饒速日尊は長髄彦の妹三炊屋媛を妻とし、宇摩志麻治命が生まれた」とあるのは信じられる。饒速日が亡くなってからも長髄彦や妹の三炊屋媛は宇迦之山(茶臼山)との間の中洲や倉吉市の向山(鳥見の白庭山)や哮峰(清熊稲荷神社の峰)周辺にいた。大己貴神(オオナムチ)と長髄彦は出雲神族(準王一族)の王名である。天穂日は鳥取県八頭郡大江郷で生まれた大国主を生まれた時からかわいがっていたので、出雲国に移ってから長髄彦を大己貴神(大国主)と呼んだ。出雲神族の王は代々、長髄彦であり大己貴神(オオナムチ)を名のった。大己貴神(オオナムチ)は出雲神族(準王一族)の代々の王名である。

(3) 古事記・日本書紀ならば瓊々杵命と磐余彦命との間には彦火火出見と鵜草葺不合の二人が入るのだが、先代旧事本紀の天孫本紀には「天孫天津彦々火瓊々杵尊の〔孫〕磐余彦尊が、天下を馭ようとして東征した」とある。彦火火出見と鵜草葺不合は一人であり鵜草葺不合は彦火火出見のあだ名ではないかと思われる。そう解することで、宇摩志麻治命は磐余彦尊の叔父くらいの年齢差になり同時代に生きていたことになる。宇摩志麻治命は父が住んでいた江府町江尾に移り住んでいた。

3「伊勢国風土記」逸文「国号の由来」

(1) 古事記・葦原中津国平定の段の建御名方神と建御雷神の説話は藤原氏によるのちの創作である。原古事記には伊勢国風土記の説話が書かれていた。天照大神が降臨しようとした邑には神がいて名を建御名方神といった。その邑は鳥取県琴浦町の方見邑であった。今の加勢陀川周辺である。

 原古事記には「建御雷神(天日別命)は建御名方神に『汝の国を天孫に献上したらどうか』と問うた。すると答えて『私はこの国を占拠してから長いこと住んでいる。命令には従いかねる』といった。建御雷神(天日別命)は兵を発してその神を殺そうと思った。するとそのとき恐れて平伏して申しあげるには、『私の国はことごとく天孫にたてまつりましょう。私はもうここにいるようなことは致しますまい』と。建御雷神(天日別命)は問うて、『お前がこの国を去ったとき、なにをもってそれを証拠だてるか』といった。すると申しあげていうには、『私は今夜をもって八風(大風)をおこし海水を吹き上げ波浪に乗って東の方にまいりましょう。これが私が退去したという証拠です』と。建御雷神(天日別命)は兵を整備してその様子をうかがっていると、夜更けになって大風が四方に起こり、大波をうちあげ、太陽のように光りかがやいて陸も海も昼のようにあかるくなり、ついに波に乗って東に去った。〔建御名方神は、信濃の国に住ませた。〕」とあった(「伊勢国風土記」逸文「国号の由来」より)。

 加勢陀川の東には斎尾・槻下という地名があり漢字変更の前は斎王・月下であった(方見神社由緒より)。天照大神(徐福)は斎王に降臨し、月読命は月下に降臨した。藤原氏は、天照大神を神武天皇に、建御名方命を伊勢津彦に、建御雷神を天日別命に変えて伊勢国風土記を作った。そして建御名方命の国譲りの部分を日本書紀から削除した。

(2) 最初の天孫降臨は天照大神・月読命・饒速日命・5伴緒など大勢の一行であった。饒速日命は鏡ヶ成から関金町の神田神社まで天降った。天照大神や月読命や5伴緒も一緒であった。天照大神は方見邑を譲るように建御雷神を建御名方神に遣わした。建御名方神が去ったので、天照大神・月読命・石凝姥命(5伴緒の1人)・手力男命・天石門別神は、神田神社から県道50号線を通って琴浦町斉尾・槻下・加勢陀川西岸に到着した。

(3)「伊勢国風土記」逸文「国号の由来」にある「天孫」とは饒速日命のことであった。古事記の「天孫」も饒速日であった。藤原氏は原古事記にあった最初の五伴緒の随伴した饒速日の降臨の記述を瓊々杵の降臨に流用した。瓊々杵の降臨に五伴緒は随伴していなかった。


4 丹後国由良川の伝承は鳥取県北栄町由良川の伝承であった。

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 小沢打魚氏の説と称する古代由良に関する史実には「皇孫瓊瓊杵尊が此の国土に御降臨あらせられる前、天照大神から大国主命の国土奉環の大命を伝へるべく遣はされられた、経津主、建御雷の二神に対して、大国主命の御子建御名方命軍が由良川を界として御守りになったものである」とする。

※ 私見

 この説話はもともと鳥取県北栄町の由良川が舞台であった。奈良時代までは語り継がれてきたが、藤原氏によって丹後の由良川に移された。

 小沢打魚氏は「皇孫瓊瓊杵尊が此の国土に御降臨あらせられる前、天照大神から大国主命の国土奉環の大命を伝へるべく遣はされられた、経津主、建御雷の二神に対して、大国主命の御子建御名方命軍が由良川を界として御守りになったものである」とされ、降臨の地の舞台を丹後の由良川とされる。この伝承の由良川は葦原中津国に流れ込む鳥取県北栄町の由良川であった。丹後の由良川はそのほかの舞台(葦原中津国など)が整っておらず、あとが続かない。鳥取県北栄町の由良川ならば時間的にも場所的にも前後がそろっていて、きれいにつながる。建御雷は北栄町妻波の岩崎神社の祭神になっている。建御雷は国譲り後、葦原中津国(北栄町妻波)に残り、住んでいたと思われる。


5 瓊々杵命の降臨

 饒速日は天穂日の縁結びで長髄彦の妹三炊屋媛と結婚したが、宇摩志麻治が生まれる前に亡くなった。2回目の降臨は瓊々杵命・天児屋根・太玉命・和久産巣日神・娘の豊受姫たちであった。瓊々杵命・天児屋根・太玉命は関金町の矢送神社(矢送神社の祭神)から、倉吉市上福田の楯縫神社に移りしばらく住んでいた。葦原中津国にいた百八十神(大国主の兄の八十神とその子・出雲神族)が成長するのを待っていた。百八十神が成長したので瓊々杵は北栄町の大宮神社に降臨した。その時案内した猿田彦は「瓊々杵命を日向(葦原中津国)に案内してから伊勢(天照皇大神宮・外宮の月下の宮)に行きます」と言った。瓊々杵命と天児屋根は日向(大宮神社、穂波)に、太玉命と和久産巣日神と娘の豊受姫は伊勢(中尾と槻下)に降臨した。


6 参考 先代旧事本紀の天孫降臨 

―天神本紀―

  天照大神は、豊葦原之千秋長五百秋長之瑞穂国は子の正哉吾勝々速日天押穂耳尊が治める国であるとして、天降りさせようとした。ところが準備している間に子が生まれたため、押穂耳尊はこの子を天降りさせるべきであると天照大神に申し出て、天照大神はこれを許した。天神御祖は天璽瑞宝十種を授けた。三十二人の護衛がつかえ、五部の人が従い、天物部を率い、天物部等二十五部のひとがつかえ、船長が梶取等を率いてつかえた。饒速日尊は天磐船に乗って河内国(日下邑あたり)の河上の哮峰(清熊稲荷神社の峰)に天降り、さらに大倭国(鳥取県中部)の鳥見の白庭山(北栄町の土下山)に遷った。

  饒速日尊は長髄彦の妹三炊屋媛を妻とし、子が生まれないうちに亡くなった。

  天照大神はこのあとまた、豊葦原之千秋長五百秋長之瑞穂国は子の正哉吾勝勝速日天押穂耳尊が治める国であるとして、押穂耳尊を天降りさせることにする。そんな折、押穂耳尊は高皇産霊尊の女栲幡千々姫萬幡姫命を妻とし子が生まれた。その子は天津彦々火瓊々杵尊と名づけられた。押穂耳尊はこの子を天降りさせたいと天照大神に申し出て、天照大神はこれを許した。

  正哉吾勝勝速日天押穂耳尊は、高皇産霊尊の女萬幡豊秋津師姫命亦の名栲幡千々姫命を妻とし、二男をもうけた。兄は天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊であり、弟は天饒石国饒石天津彦々火瓊々杵尊である。

―天孫本紀―

  天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊。亦の名は天火明命、天照国照彦天火明命、饒速日命、膽杵磯丹杵穂命という。天照大日?貴尊の太子正哉吾勝々速日天押穂耳尊が高皇産霊尊の女豊秋津師姫栲幡千々姫命を妻とし生まれた子である。天祖より天璽瑞宝十種を授かり、天磐船に乗り河内国(日下邑あたり)の河上の哮峰(清熊稲荷神社の峰)に天降り、さらに大倭国(鳥取県中部)の鳥見の白庭山(天香久山=土下山)に移り定住した。

  饒速日尊は長髄彦の妹三炊屋媛を妻とし、宇摩志麻治命が生まれたが、宇摩志麻治命が生まれる前に饒速日尊は亡くなった。 

  饒速日尊は天上にいるとき、天道日女命を妻とし、天香語山命が生まれた。天降って三炊屋媛を妻とし宇摩志麻治命が生まれた。天香語山は亦の名を高倉下命といい、磐余彦尊が熊野で毒気にあたったとき剣をもって助けた。

  天孫天津彦々火瓊々杵尊の孫磐余彦尊が、天下を馭(おさめ)ようとして東征した。中洲の豪雄長髄彦は饒速日尊の子宇摩志麻治命を君とし、天孫に二種あるはずはないとして抵抗した。宇摩志麻治命は長髄彦の謀には従わず、長髄彦を殺して軍を率いて帰順し、饒速日尊より授かった天璽瑞宝十種を天孫に献上した。

  大歳辛酉正月一日、天孫磐余彦尊は橿原宮に都をつくり即位した。姫蹈?五十鈴媛命を皇后とした。これは大三輪の神(大国主)の女である。






出雲大社のモデルは松江の田和山遺跡の5本柱遺構ではなく、湯梨浜町の長瀬高浜遺跡の巨大4本柱遺構であっ

出雲大社のモデルは松江の田和山遺跡の5本柱遺構ではなく、湯梨浜町の長瀬高浜遺跡の巨大4本柱遺構であった


1 稲吉角田遺跡の絵画土器に描かれている高い建物は出雲大社のモデルではないか、という説が多い。
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 石碑の正面は天真名井のある淀江町高井谷集落である。
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 絵画土器の土器片から復元された壺である。
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 この4本柱の高い建物が出雲大社のモデルではないか、と言われている。

2 田和山遺跡

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 遺跡自体は高いところにある。

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 一番上から宍道湖方面を望む。

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 5本柱遺構は柱の太さ20~30cm。柱と柱の間は2mありません。
 古事記には、国譲りに際し大国主命が「この葦原の中つ国は、天神の詔のままに、ことごとく差し上げよう。ただその後の私の住処は、天神の御子が住んで世をお治めになる宮と同様に、どっしりと宮柱が太く、千木を空高く掲げて造ってくだされば、私は隠れていよう」と言ったので、天孫族は多藝志之小濱に御殿を建てた、と書いている。
 この5本柱の建物が出雲大社のモデルである、と言われる方があったが、サイズを知らなかったのだろう。

3 私見
 江戸時代まで長瀬高浜の西には石山があり、舵の柄のようになっており、長瀬高浜と石山を合わせて舵(多藝志)の形をしていた。多藝志之小濱は長瀬高浜であった。
 以前詳しく述べてきたが、鳥取県湯梨浜町の長瀬高浜遺跡で見つかった高床式建物跡(SB40)は柱の太さが2.5mもあるような4本柱の建物であり、梯子跡もある。この建物が、大国主のために造られた出雲大社のモデルであり、稲吉角田遺跡の絵画のモデルであった。
 稲吉角田遺跡出土の線刻土器の時代は紀元前1世紀である。神武天皇は妻木晩田を紀元前100年頃、開いた。稲吉角田遺跡は妻木晩田遺跡の近くにある。この壺は土器を多く作った神武天皇によって作られたと思われる。
 長瀬高浜遺跡のSB40の時代を紀元前160年頃(弥生前期)としていないのは、遺構外で弥生時代前期の土器片が多数かたまって見つかっているにも関わらず、時代判定にまったく考慮されていないからである。
 笠沙之御前は北条砂丘であり、その中央の茶臼山(いなさ山)に大国主はいたのであるから、同じ笠沙之御前の東端に父の素戔嗚に言われていた高い建物を建ててもらったとしても、おかしくはない。
長瀬高浜遺跡.jpg
 右側に建物跡もあり、古事記の舞台である。素戔嗚の子の大国主(天孫族)は事代主と百八十神(出雲族)に国譲りをさせ、天孫族からよくやったと褒められ、父の素戔嗚が言っていた高い建物を建ててもらい、梯子下の食堂で鱸(すぐ横の東郷池でとれた)などの料理をもてなされた。
 稲吉角田遺跡の絵画土器に描かれた4本柱の高い建物は鳥取県湯梨浜町長瀬高浜遺跡の4本柱の高い建物(SB40)であった。

日本書紀は列島における百済再興のために制作された

 日本書紀は列島における百済再興のために制作された。

1 旧唐書に倭国と日本(百済)は別の国と書かれるほど唐に疑われていたので万世一系の天皇家と思わせるようにしなければならなかった。そんなおり、太安万侶より倭国の歴史書が上程された。不比等をはじめとする亡命百済人たちは百済(日本)の歴史書を創るにあたり、倭国と日本(百済)は別の国と思われないために百済の王の中に倭国の王を混ぜた。
 日本書紀において原古事記から引用したと思われる倭国大王は神武天皇、崇神天皇、応神天皇、雄略天皇、天武天皇くらいである。あとは百済王の在位期間を持ってきている。大「臣」とされているのも、すべて倭国の大「王」であった。亡命百済人たちは、奈良で仕事を与えられ、倭国の下僕として働いていた。石像などを造ったのも亡命百済人である。テロで政権を奪った亡命百済人たちは日本書紀において倭国の大王を下僕(大臣)として仕えさせるという書き方をした。
 古事記原本には大「王」と書いてあったのを大「臣」に書き換えている。

2 倭国を征服・支配するために創られた百済の八幡神社の祭神として、神功皇后・武内宿禰・誉田別・仲哀天皇を創作し日本書紀に書き入れた。
 13代成務天皇と14代仲哀天皇は架空の天皇である。神功皇后も架空の皇后である。倭国が弥生時代後期に神社・神道で全国を統一したのを真似て、不比等たち百済人は多くの八幡神社を全国に創った。
 列島に多く残っていた倭建命・倭姫命(卑弥呼)の伝承を消さなければならなかった。八幡神社周辺の倭建命・倭姫命(卑弥呼)の伝承は武内宿禰と神功皇后の伝承に置換え、日本書紀に記載した。
 倭建命を13代倭国大王であった武内宿禰に置換え、倭姫命(卑弥呼)を神功皇后に置換えた。抜けた13代天皇に架空の成務天皇をあてた。
 14代を誉田別の父親にすることにし14代に架空の仲哀天皇をあてた。本来14代であった仁徳天皇を16代に移した。
 15代は特別な天皇であったので動かすことはしなかった。応神天皇は百済が初めて倭国に朝貢したときの倭国大王であり、3年間人質として百済にいたため、百済にとって特別な天皇であった。応神天皇を百済の神社である八幡神社の主祭神にした。

3 蘇我氏は倭国大王であった。
 倭国13代大王は武内宿禰大王であり、その三男の蘇賀石河宿禰は蘇我氏の始祖であった。蘇我氏は武内宿禰大王の子孫であり、倭国大王になる血筋であった。蘇我稲目・蘇我馬子・蘇我入鹿・蘇我倉山田石川麻呂は大「臣」ではなく大「王」であった。太安万侶が上程した原本にはそう書かれていたが、百済人は日本国天皇を創り上げ蘇我氏三代は下僕(大臣)として仕えさせるという構成にした。
 したがって、宣化・欽明・敏達・用明・崇峻・推古・舒明・皇極・孝徳・斉明・天智は倭国大王ではなく百済王であった。
 崇峻紀4年(591年)条に「崇峻天皇(蘇我馬子大王)は群臣と諮り、任那の失地回復のため2万の軍を筑紫へ派遣し、使者を新羅へ送った。政治実権は馬子にあり、崇峻天皇は不満であった。崇峻天皇5年10月(592年)、天皇へ猪が献上された。崇峻天皇は猪を指して『いつか猪の首を切るように、朕が憎いと思う者を斬りたいものだ』と発言し、多数の兵を召集した。馬子は崇峻天皇の発言を知り、天皇が自分を嫌っていると考え、天皇を殺害することを決意する。同年11月、馬子は東国から調があると偽って、東漢駒に崇峻天皇を殺害させた」とある。
 「任那の失地回復のため2万の軍を筑紫へ派遣し、使者を新羅へ送った」のは百済王の崇峻ではなく倭国王の蘇我馬子大王であった。朝鮮半島にいた東漢駒の軍に百済王の崇峻を殺害させた。主語を書き換え、舞台を倭国内のように書いているが舞台は朝鮮半島であった。
 皇極・斉明は642年に百済からの船に乗っていた「高名な40人余り」の中にいた百済人豊璋(天智)の母親であった。舒明は百済で亡くなった武王(百済人豊璋の父親)がモデルである。天武天皇は倭国28代蘇我善徳大王(聖徳太子)の王子であった。百済王の古墳は方墳・六角墳・八角墳であり、倭国王の古墳は円墳・前方後円墳であった。

4 神武東征は不比等の創作である。
 亡命百済人の王族は一時宮崎県にいたので不比等は宮崎県を都に見立てた。710年に平城京を築いてもらったので、不比等は宮崎にいた王族を奈良に呼び寄せた。王族が宮崎から奈良にきたのだから百済の都も宮崎から奈良に遷ったという体裁をとる必要があった。不比等は太安万侶が上程した原本に書いてあった初代神武天皇の鳥取県中部を出発して藤原氏の先祖の蝦夷(略奪集団の出雲族)を平定し、鳥取県中部に帰ってきた記述を利用することを考えた。不比等は倭国の歴史書に書いてあった神武天皇の記述を改ざんして神武東征を創作した。
 原本に書かれていた神武天皇たちの目的は蝦夷(出雲族)を平定することであった。九州の蝦夷を平定したあと、倭国に帰ったが、長髄彦に敗れ、倭国をいったん退いて福山市と尾道市を拠点として出雲から出てくる賊(出雲族)を平定し倭国を取り戻す機会をうかがっていた。倭国(鳥取県中部)を出雲族から取り戻し、紀元前60年に即位した。
 神武天皇は線刻土器の年代比較により摂津国(茨木市の東奈良遺跡)までは行っているが、奈良までは行っていない。唐古・鍵遺跡などの線刻土器は1世紀なので奈良を平定したのは4代懿徳天皇(在位40年~75年)と思われる。中国皇帝への最初の朝貢を北九州の倭奴国にさせたのも懿徳天皇と思われる(紀元57年)。倭奴国は「倭国に仕え従う国」と書く。2代から6代までの天皇は奈良だけでなく東国も平定していった。東北まで平定したのは7代孝霊天皇の皇子(倭建命)と皇女(倭姫命)であった。藤原氏は神武東征との整合性を謀るため、また藤原氏より以前に全国を統一していた別の王朝があったことを隠すため、2代から9代までの旧事を消した。
 10代崇神天皇は四道将軍を置き、全国に神社を建てて、殷王朝から伝わってきた出雲族の宗教を神道に改宗させて、全国を統一した。

5 倭国王2代から9代までの旧辞は削除した。
 倭国王第4代懿徳天皇は奈良を平定し、北九州にあった倭奴国を使って初めて中国に朝貢させた。倭国王第6代孝安天皇(倭国王帥升、在位105年~147年)は後漢への即位報告の朝貢途中、朝鮮半島でとらえた生口(捕虜=略奪集団の扶余族)160人を後漢の安帝に献じた(107年)。7代孝霊天皇とその子、8代孝元天皇と9代開化天皇と卑弥呼は全国と半島を平定した。
 奈良に都を遷したのは初代神武天皇としなければならないから、第4代の旧辞を残しておくと整合性が取れなくなるので消した。
 第6代の捕らえた生口は略奪に喜びを感じる扶余族であり、百済人の先祖であった。7代8代9代に平定された出雲族も略奪集団であり、百済人の先祖であった。藤原氏と同族である出雲族の平定される様を残すわけにはいかず2代から9代の旧辞は消した。出雲族と同族の藤原氏は倭国を乗っ取ってから、出雲国風土記を創作し出雲大社を築造して出雲を聖地にした。藤原氏以前に全国を平定・統一していた王朝の旧辞を残すわけにはいかなかった

6 新羅と百済を入れ替えている。
 垂仁紀2年是歳条 、神功皇后摂政紀47年4月条、応神紀14年是歳条、応神紀16年8月条、仁徳紀53年5月条、雄略紀7年是歳条、雄略紀9年3月条にある「新羅」は原文に「百済」とあったのを書き換えている。
 新羅と倭国(鳥取県中部)は建国以来兄弟国であったので、倭国の歴史書に新羅を悪く書くことはない。百済人は倭国の歴史書にあった新羅と百済を入れ替えた。欽明天皇の段で特に多い。百済は新羅の法興王を殺した。
 仏教は新羅の法興王から伝わったにもかかわらず、百済から伝わったと書いた。飛鳥寺(法興寺)は新羅の皇龍寺をモデルに建築された。
 湯梨浜町宮内遺跡発掘調査報告書や青谷上寺地遺跡発掘調査報告書を見ると、弥生時代前期から鳥取県中部(倭国)は大陸と直接交流をしていたことが判る。その大陸とは東郷池・青谷と最短距離にある新羅国である。新羅国は稲飯命が建国しそこで鉄製の武器を造っていた。新羅国と倭国(鳥取県中部)は弥生時代前期から兄弟国であった。

7 日本書紀は原古事記の発音を他の漢字であてた当て字である。
 日本書紀は古事記とは別の漢字を使う。意地でも別の漢字を使う。久米を来目と書く。長谷を泊瀬と書く。大御堂廃寺から7世紀の「久米寺」と墨書された皿が発掘された。日本書紀が製作される以前は「久米」の字が使われていた。「大倭」を大和や日本に変えている。先祖代々使ってきた「倭」の国号を倭国の大王はそう簡単に変えることはない。倭(やまと)と名乗った祖神(伊邪那岐)を大事にする一族だからである。8世紀に倭の国号を変えたとするが、倭の大王ならば先祖が800年使ってきた国号を「優雅でない」という理由だけで変えることはない。倭の文字が「優雅でない」から大和・日本に変えたのではなく、日本と名乗ったのは倭王朝とは別の百済王朝だからである。日本(百済)は倭国を乗っ取ったのである。

8 日本(百済)という国号を遡らせて使っている。
 日本という国号は百済からの人質の豊璋(天智)が669年に発案し702年に中国に知らせた。亡命百済人たちの国号であった。万世一系の日本国であったと思わせるため日本の文字を669年以前に遡って記載した。
 倭国歴史書には倭建命(157年~188年)と書いてあったのを日本武尊に書き直している。
 173年に卑弥呼と倭建命が建国し663年に統一新羅が半島を統一するまで、任那があった場所は最初から最後まで全羅南道であった。藤原氏は百済が任那を征服したと思わせないため、新羅に隣接する加羅10国が任那であると記載した。
 雄略天皇のときと512年から543年頃にかけて任那は百済(日本)に滅ぼされ占領されていた。「任那日本府」の文字は百済が全羅南道の任那を征服したので日本書紀では遡らせて「任那日本府」と書き換えた。

9 伊勢神宮と伊勢国を古く見せかけている。
 伊勢神宮は全国を統一した卑弥呼のいた志摩国を封印するために倭国を乗っ取った藤原氏が創建した。藤原氏だから奈良時代より古くはない。伊勢神宮がまだなかった時代に倭建命も持統も伊勢神宮に行ったことにしている。
 伊勢国を創るために、原古事記にあった建御名方と建御雷との国譲りの交渉を伊勢国風土記の伊勢津彦と天日別命との交渉に書き換え、時代を神武天皇の時代にして天照大神の降臨を日本書記には記載しなかった。伊勢国を創ったのも伊勢神宮と同じく奈良時代以降である。

10 準王一族のいたところを聖地にしている。
 藤原氏は朝鮮半島に残っていた箕氏朝鮮の準王一族と思われる。倭国を乗っ取ってから紀元前194年頃に渡来した準王一族のいたところを聖地にした。藤原氏は兄妹婚や母親・叔母との結婚(近親婚)をおかしいと思っていない節があるので藤原氏と準王一族(蝦夷)は同族と思われる。奈良、出雲、熊野、淡路島、阿蘇、高千穂など準王一族が多くいたところであり、藤原氏は倭国を乗っ取ったあと奈良、出雲、熊野、淡路島、阿蘇、高千穂などを聖地にして日本書紀でもそのように記載した。

天照大神は徐福であった

天照大神は徐福であった

1 中国人は大喜びであり、我々日本人は大変残念であるが、我々が尊敬してやまない天照大神は徐福であった。悔しいが、これが真実と思われる。時代も神武天皇即位年紀元前60年説を採れば無理なくつながる。崇神天皇も卑弥呼も天武天皇も道教を信奉していたが、これは始祖が道教を信奉していたからである。始祖とは道教の方士徐福である。崇神天皇は道教が母体の神道を初めて全国に創設した。卑弥呼は第7代孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫であった。倭迹迹日百襲姫も道教(鬼道)の祭祀をしていた。何のために伊勢神宮を参拝していたのだろう、と思われるかもしれないが、歴代の天皇が参拝しなかったのは、これも理由の一つであった。

2 史記(司馬遷)淮南衡山(わいなんこうざん)列伝第五十八
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 国立国会図書館デジタル書籍より
 史記(司馬遷)淮南衡山(わいなんこうざん)列伝第五十八に「(始皇帝は)徐福に船出して神仙を求めさせた。徐福は戻った。私は海中の大神に会った。『そなたは西皇の使者か』と言うので、私が『そうです』と答えると、『そなたは何を求めているのか』『不老長寿の薬をいただきたいと存じます』と答えた。すると神は『そなたの秦王の礼は丁重でない故、見ることはできても手に入れることはできぬ』といった。そこで私を従えて東南の蓬莱山に行き(即從臣東南至蓬莱山)、そこで霊芝でできた宮殿や(見芝成宮闕)、銅の色で龍の形をした使者がいて(有使者銅色而龍形)、光が天を照らしているのを見た(光上照天)。そこで私は再び拝礼して尋ねました。『どのようなものを献上すればよろしいのでしょうか』と問うた。すると海神は『名声ある男子と童女とさまざまな分野の技術者を献上せよ。そうすれば望みの物が得られよう』といわれました、と偽りの報告した。秦の始皇帝は喜び、良家の童男童女三千人と五穀(中国の五穀は麻・黍・稷・麦・豆)の種子とさまざまな分野の技術者を徐福に託して旅立たせた。徐福は、平原広沢を手に入れ、そこに留まって王となり、帰らなかった」とある。
 第1次の徐福(紀元前219年)は米子市陰田町に到着し東南の大山に連れていかれ大神の宮殿や銅色の龍形の使者がいて光が天を照らしている(光上照天)のを見た。徐福は平原・広沢を得て王となり、最初に見た情景に因んで「天照大神」と名乗った。
 高天原の様子を見れば分かるが、天照大神は集団のリーダーであり、徐福も集団のリーダーである。徐福は始皇帝に「三神山〈大山(蓬莱山)・烏ヶ山(方丈山)・蒜山(瀛州山)〉に留まって王となり秦の威名を高めよ」と言われていた。徐福は始皇帝に言われたように三神山〈大山(蓬莱山)・烏ヶ山(方丈山)・蒜山(瀛州山)〉に止まって王(天照大神)となった。国譲りで蒜山高原(高天原)から鳥取県中部(倭国)に降臨し、平原(琴浦町の伊勢野・鈴鹿野・斉尾野)・広沢(北栄町の葦原中津国を含む豊葦原瑞穂国)を得て王(天照大神)となった。

3 「史記」秦始皇本紀第六37年には、徐福が2度目に出発したとき「連弩(連発武器)を積み込んでいた」と記されている。
 「古事記」には「スサノオの様子を見た天照大神は、高天原に攻め入るつもりだと危ぶむ。そしてすぐに御髪を解いて御角髪(みづら)に巻いて、・・・背中には千本の矢入りの箙を背負い、脇には五百本の矢入りの箙を着け、・・・弓の末を起こして、硬い地面を踏みしめ、淡雪を蹴散らして、威勢よく雄(男)叫びをあげて待ち構え、「何のために上ってきた」と問いかけた」とある。
 古事記には連弩とは書いてないが「天照大神は背中に千本の矢入りの箙を背負い、脇に五百本の矢入りの箙を着け」とあるので、天照大神のもっていた弓は徐福が積み込んでいた連弩(連発武器)である。これも天照大神は徐福であったとする根拠である。

4 天照大神のいた高天原は蒜山高原であった。
 奈良の葛城や宮崎県の高千穂にも高天原の伝承が残るが藤原氏が創作したテーマパークである。富士山高天原も藤原氏が創作したものである。北九州が高天原という説もあるがこれは天孫族が大陸に渡るために北九州に留まることがあったので天孫族の痕跡が残っているのであり、本当の高天原は蒜山高原であった。蒜山高原の5神社のすべて(100%)に天照大神が祀られている。戦前では佐竹氏、戦後は田村誠一氏、Vetty氏は蒜山高天原説を唱える。

5 徐福一行(紀元前210年の第2次)は辰(秦)韓より次々と伯州(鳥取県中西部)に結集した。徐福は伯耆富士(大山)をこれぞ蓬莱山であると遥拝したが、東に行くにつれてその形を見失い、小さな湾(北栄町の葦原の中津)に到着し、宇記島・原(北栄町の島集落と原集落)に上陸した。その後、蒜山に上がり蒜山周辺の山々に上がって仙薬を探し、周辺の山々を「仙」(せん)と名付けた。伯耆国に到着した徐福一行は出雲に引き返していない。中国地方で一番高い山のある大山・蒜山にのぼり仙人や仙薬を探し、神仙を求めた。蒜山周辺の50くらいの山は「さん」ではなく「せん」(仙)と読ませる。徐福は道教の方士であり、「山」を仙薬のある神仙に見立てて「仙」(せん)と名付けた。蒜山高原(瀛州)は仙人(真人)の居るところであり、徐福一行の目的地であった。倉吉に皇居のあった天武天皇は伊邪那岐を表わす最高位の「瀛真人」であった。
 徐福が富士高天原で記録したとされる宮下文書の原型は伯耆富士(蓬莱山)に隣接する蒜山高原(瀛州)で書かれたものである。

6 徐福一行は東海の三神仙(大山・烏ヶ山・蒜山)を目標に航海してきたのであり、出雲には行っていない。出雲に到着したのは、殷王朝末裔の準王一族であった(紀元前194年)。準王一族(因幡の白兎に出てくる大国主の兄の八十神)は葦原中津国や因幡にも上陸した。約束の地である葦原中津国に準王たちが上陸したので天忍穂耳は葦原中津国が騒がしいと言った。天孫降臨に際し、天穂日は葦原中津国にいた準王一族(大国主の兄の八十神=出雲神族)の本拠地を大国主から教えてもらい準王の様子を偵察するため能義平野(安来市)に行った。松江の南部(熊野大社)に拠点のあった準王一族(出雲神族)を天穂日は監視していた。出雲神族の子孫の富氏は天穂日をヤマト王権のスパイであったという。天穂日は出雲神族の女を娶り婚姻関係を結んだ。饒速日が長髄彦の妹を娶ったのも天穂日の仲介によるものと思われる。準王たち(八十神=出雲神族)は天穂日に同化してゆき、天穂日を始祖とした。天穂日の子供とされるタケヒラドリは殷王朝末裔の準王であった。天穂日は自分より年少であった準王(タケヒラドリ)に可愛がっていた大国主の別名の大穴牟遅の名を与えた。それ以来、出雲神族の代々の王(長髄彦)を大穴牟遅と呼ぶようになった。

7 天照大神は因幡の霊石山などに伝承が残るので、因幡国(鳥取県東部)には出向いている。しかし、「義楚六帖」の記述より亡くなったのは倭国(鳥取県中部)内である。徐福(天照大神)が亡くなった(紀元前180年)のは、丹後ではなく、倭国(鳥取県中部)であった。
 八女市の童男山古墳群は27基の円墳であるが、徐福の古墳と言われている。新宮市徐福公園にあった徐福の重臣7人の墓も円墳でつくられていた。
​​ 童男山古墳の伝説や新宮市の徐福の重臣7人の墓は藤原氏が作ったものであるが、京都の藤原氏は徐福たちの墓が円墳であり奈良時代まで都が鳥取県中部にあったことを明治になるまで知っていた。
 鳥取県中部に古墳は2395基発掘されているが、そのうち2338基(97.62%)は箱式木棺・石棺を土で封じた円墳である。徐福一行の古墳は円墳であった。鳥取県中部にいた一族は徐福一行であった。徐福が留まった倭国とは鳥取県中部であった。
 奈良の藤ノ木古墳は蘇我善徳大王、キトラ古墳は高市大王、高松塚古墳は忍壁大王の墓である。

穂積大王の次の大王(在位715年~734年)は鳥取県中部(倭国)にいた

 穂積大王の次の大王(在位715年~734年)は鳥取県中部(倭国)にいた

1 元明天皇と元正天皇と山上憶良と聖武天皇について
※ 元明天皇(女帝・中継ぎ天皇といわれる・火葬)の在位は707年~715年である。
※ 元正天皇(女帝・中継ぎの中継ぎ天皇といわれる・火葬)の在位は715年~724年である。
※ 山上憶良は伯耆守に任ぜられ(716年~721年)第34代倭国大王(在位715年~734年)に仕えていた。721年に奈良に帰り東宮・首皇子(聖武天皇)の侍講(家庭教師)となり倭国王家の王道を聖武天皇に教えた。しかし、長屋王暗殺計画の妨げになるため、筑前国に下向させられた(726年~732年)。大宰府に着任した大伴旅人とともに、筑紫歌壇を形成した。
※ 聖武天皇の在位は724年~749年である。火葬ではないから実在していた。天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発したため、たびたび遷都を行った。
(私見)
 元明天皇と元正天皇は「中継ぎ天皇」と軽んぜられ、実在したかどうか判らないようにするために火葬にした。元明天皇と元正天皇は倭国に実在した天皇ではない。

2 筑紫歌壇での大伴旅人の歌
 やすみししわご大君の食国は倭も此処も同じとぞ思ふ
(私見)
 大伴旅人は倭国大乱(146年~189年)のときに倭建命や倭姫命(卑弥呼)の全国巡行に随伴していた安倍、大伴、物部、中臣、和珥氏など五人の有力将軍のうちの一人である大伴氏の子孫である。大伴氏は倭建命や倭姫命(卑弥呼)の征西(九州)にも随伴して九州を平定している。大伴旅人は古来より倭国王家の腹心の部下である。
 旅人のいう「倭」とは鳥取県中部のことであり、此処とは倭奴国(北九州)のことである。北九州は倭奴国と呼ばれ倭国の防衛を担っていた。また倭国(鳥取県中部)から来た天孫族が半島に行くために一時留まるところでもあった。
 大伴旅人と山上憶良は長屋王の変を遂行するのに邪魔になるので九州に行かされた。

3 筑紫歌壇での山上憶良の歌
 父母を 見れば貴し 妻子見れば めぐし愛し 世の中は かくぞことわり もち鳥の かからはしもよ ゆくへ知らねば 穿沓を 脱き棄るごとく 踏み脱きて 行くちふ人は 石木より 成りてし人か 汝が名告らさね 天へ行かば 汝がまにまに 地ならば 大君います この照らす 日月の下は 天雲の 向伏す極み 蟾蜍の さ渡る極み 聞こし食す 国のまほらぞ かにかくに 欲しきまにまに しかにはあらじか 
(訳)
 父母を見れば尊い。妻子を見れば可愛くいとおしい。世の中の道理はこうしたもの、モチにかかった鳥のように家族への愛情は断ち切り難い。行末も分からぬ我等なのだから。穴のあいた靴を脱ぎ捨てるように父母や妻子を捨てて行くという人は、非情の石や木から生まれた人だろうか。あなたの名前をおっしゃい。天へ行ったなら、あなたの思いのままにするのもよかろうが、この地上ならば、大君がいらっしゃる。この太陽と月が照らす下は、雲の垂れる果てまで、ヒキガエルが這い回る地の果てまで、大君のお治めになるすぐれた国土なのだ。あれもこれもと思いのままにしようというのか、そうゆくものではあるまいよ。

​​4(私見)
 朝鮮半島から亡命してきた百済人たちは倭国の下僕として仕事をもらい、飛鳥や奈良で働いていた。しかし、百済人の鎌足や天智は蘇我入鹿大王を殺した。鎌足の子の藤原不比等も天武天皇、高市大王、忍壁大王、穂積大王を暗殺した。不比等の暗殺を倭国が気付かないわけがない。もともと倭国の大王家は長寿の家系だから、四人の大王の早い死は不思議に思っていた。奈良の危険性に気づき長屋親王だけを奈良に行かせ穂積大王の次の大王は鳥取県中部(倭国)に留まらせた。
 山上憶良のいう「大君」とは鳥取県中部(倭国)にいた倭国大王のことであり、元正や聖武のことではない。山上憶良は716年から5年間鳥取県中部(倭国)にいたからこの「大君」のことは知っていた。鳥取県中部(倭国)から奈良(倭国が造った京)に帰って、東宮・首皇子(聖武天皇)の侍講となり倭国王家の王道を聖武天皇に教えた。教え子の聖武が即位(724年)したことも知っている。「大君」とは元正や(新羅の疫病(?)から逃げ回っていた)聖武とは別人であり、鳥取県中部(倭国)にいた倭国大王のことである。
 倭国は倭国大乱(146年~189年)のときに、倭姫命(卑弥呼)や倭建命を擁する倭の王軍によって、東は岩手県から西は長崎県さらには半島まで統一していた。2世紀後半から8世紀前半まで500年以上列島はヤマト王権によって支配統一されていた。山上憶良は亡命百済人2世だが、鳥取県中部(倭国)に5年いたので親倭派になっていた。百済(日本)王として即位した聖武天皇の侍講もしていたが、親倭派であったために北九州に左遷された。
 この歌は誰に対して怒りをぶつけているのか解からなかったが、藤原氏によるクーデター計画(長屋王の変)のあることを知って詠んだ歌である。

5 鳥取県倉吉市の北野神社は山上憶良が仕えた第34代倭国大王(在位715年~734年)の宮であった。
(1)小鴨道祖神遺跡より
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 「電波塔あたりでも飛鳥・奈良時代の住居跡が見つかっているので、小鴨道祖神遺跡まで遺跡は連続していたはずである」と現地説明者は言っていた。「硯転用土器も見つかっているので、国庁の役人が住んでいたのではないか」と言っていた。
​(2)私見
 この遺跡の中央に北野神社がある。周辺の形状からしてただの神社ではなく大王の宮と思われる。蘇我入鹿大王の宮は由良にあり古墳時代中期から奈良時代にかけての遺跡であった。蘇我入鹿大王の子の天武天皇の皇居は倉吉市の賀茂神社であった。北野神社周辺の遺跡は飛鳥・奈良時代であり、天武天皇より新しく菅原道真より古い。在位715年~734年の第34代倭国大王の宮と思われる。
(3)余談
 菅原道真の生まれたところは諸説あり本当のところは定かではない。「菅原は蘇我原」と解することができるので菅原氏は鳥取県中部に居た蘇我氏の子孫と思われる。また母の伴氏は鳥取県に居た大伴家持の子孫である。菅原道真が倉吉市北野出身としてもおかしくない。ただし、北野神社は周辺の形状からして大王の宮と思われる。
 古くから、生田で八幡神社を祀っており、明治期になると饒速日のいた哮峰に八幡神社を遷して八幡町まで造っているので生田に住んでいたのは富海(鳥見邑)で長髄彦に率いられていた出雲族ではないかと思われる。

神武東征は不比等の創作であった

  ​神武東征は不比等の創作であった

1 日本書紀の神武東征の順序
➀速吸の門(豊予海峡)(椎根津彦)②一つ上がりの宮(宇佐)③岡水門(筑紫)④安芸⑤吉備⑥浪速国

2 古事記の神武東征の順序
➀日向を出発して②足一騰宮(宇佐)③岡田宮(筑紫)④安芸⑤吉備⑥速吸の門(明石海峡)(槁根津日子)

3 私見
速吸の門を日本書紀では豊予海峡でなければならないし、古事記では明石海峡でなければならない。どちらが正しいであろうか。
 明石平野の弥生時代の遺跡
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 椎根津彦(槁根津日子)は国つ神であり土地に土着の者であるから縄文人であった。新方遺跡では弥生時代前期に石鏃の刺さった縄文系人骨3体が発掘されている。新方遺跡に住んでいたのは椎根津彦(槁根津日子)一族であった。神武天皇は弥生時代中期だから殺害されてから通りかかり、椎根津彦(槁根津日子)に賊はどこに行ったか聞いた。椎根津彦(槁根津日子)は道案内をした。
 大分市・臼杵市に弥生時代の遺跡は少ない。
 速吸の門は明石海峡であり、古事記が順序としては正しい。

4 それでは古事記にある神武天皇たちが出発した「日向」とはどこか。
 通説は宮崎県の日向国とする。しかし、津田左右吉は昭和15年発刊の「古事記及び日本書紀の研究」において「宮崎県の日向国は膂宍の空国(肥沃でない国)とされており都であった証しがない。古墳群があるからというだけでは都にはならない」とし「日向とは宮崎県の日向国ではない」とした。
 ここで北九州の研究者は「日向は北九州にあった」とするが、北九州ではその前後がつながらない。邇邇芸命は「この地は朝日が直に刺す国、夕日の火照る国」と言ったので、日向御子というあだ名をつけられた。日向とは邇邇芸が降臨した
52.jpg地のことである。
 邇邇芸は成人になるまで、矢送神社と楯縫神社で過ごしたが、どちらも日陰であり日照時間も短いところである。上種の大宮神社に移ってから日当たりが良いので「この地は朝日が直に刺す国、夕日の火照る国」といった。四王寺山も楯縫神社より海側にあるので日向の地である。邇邇芸が降臨したのは間違いなく、鳥取県北栄町上種の大宮神社である。神武天皇たち4兄弟が育った四王寺山も日向であった。神武天皇たち4兄弟は日向の四王寺山を出発した。最初の目的は九州の蝦夷の平定であった。倭国(鳥取県中部)にとって九州は半島に渡るために重要な場所であった。
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 神武天皇たち4兄弟は日向をたち山口県光市から船で宇佐に付き、稲飯命は鉄の武器を造るために半島に渡った。稲飯命は鉄の武器を造って半島の西側から船で岡田宮に帰ってきた。神武天皇は筑紫の岡田の宮で待っていた。岡田宮から吉野ヶ里遺跡に行くまでの2ケ所で紀元前100年頃の鉄鏃が出土している。これは神武天皇4兄弟が放った鉄鏃である。吉野ヶ里でも鉄鏃が見つかっている。吉野ヶ里では蝦夷が人間を奴隷にしていた。堀と柵の位置が通常の反対である。神武天皇たちは吉野ヶ里も攻撃した。紀元前100年頃の鉄鏃は鹿児島でも見つかっているので、神武天皇4兄弟は九州全域を平定している。
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​ イツセと磐余彦は九州を平定して生まれ育った倭国(鳥取県中部)に帰ってきたが、ナガスネヒコの矢がイツセにあたり、いったん山陽に退却した。山陽でも蝦夷を平定した。しかし奈良には行っていない。倉吉市清谷の上里神社の由緒には「山陽に行った」とだけあり、奈良とは書いていない。
 神武天皇は福山市柳津と尾道市高須を拠点として蝦夷を平定していった。​
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 神武天皇は蝦夷に祭祀方法を変えるよう指導していた。銅鐸祭祀ではなく線刻土器祭祀を勧めていた。茨木市東奈良遺跡の線刻土器は紀元前1世紀のものであり神武天皇が変えさせた。しかし、奈良の線刻土器は紀元1世紀だから、神武の100年後、4代の懿徳天皇が奈良を平定し、線刻土器祭祀に変えさせた。神武天皇は摂津国までしか平定していない。

5 なぜ、不比等は神武東征を創作したのだろうか。
 津田左右吉はその著書「古事記及び日本書紀の研究」において「神武天皇の東遷の説話そのものが・・・ヤマトの都において重要の地位を有するものによって考案せられたことがわかるので、物語そのものからいうと・・・ヤマト朝廷の起源を述べた一つの説話なのである。やはり歴史的事実としての記録とは考え難い」とする。
 「ヤマトの都において重要の地位を有するもの」とは藤原不比等であった。
 藤原鎌足は642年の百済からの船に乗っていた翹岐であり百済人である。不比等は百済系2世であった。白村江の戦いで亡命してきた百済王族を鎌足は宮崎県に逃がしている。平城京を造ってもらって不比等は百済王族を宮崎県から奈良に呼び寄せた。百済王族が宮崎から奈良に遷ったことを神武天皇に仮託して神武東征を創作した。古事記・日本書紀を改ざんし、西日本に神武東征関係のテーマパークを多く造った。
 神武東征関係の19の自治体が日本遺産登録のために運動している。私が調べた限りでは、創作された地がほとんどである。   
   

神武天皇は山を穿って道をつけ、ゲリラ戦を展開していた


 神武天皇は山を穿って道をつけ、ゲリラ戦を展開していた
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 神武天皇は鴨建角身(八咫烏)の案内で鏡ヶ成から野添経由で上大立(穿邑)に降臨した。
 最初に下福田にいた兄ウカシを退治した。大立に楯縫邑を置いた。
 上大立(穿邑)から最初につけた道は鳥取県道313号線であった。終点下見の近くに別宮(城田)を造った。もう一方の終点に佐野大橋を造った。
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 日吉神社に行くように道が続いている。日吉神社の祭神は邇邇芸になっているが、川の横にあるので祭神は日吉神社から船を出している。日吉神社の祭神は饒速日であった。ウマシマジはこの時までに合流していたので日吉神社を通った。富海のほうから見つからないように関金宿に入っている。
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 関金宿から穿って鳥取県道306・38号線つけ、福山・曹源寺・下西谷・穴鴨・加谷・木地山・下畑・田代・大谷から竹田地区(猛田郷)を平定した。円谷広瀬線も同時進行で穿ってつけた。
 その後、曹源寺から小河内へ、木地山から福吉・鉛山経由で神倉(かんのくら)に至り、土蜘蛛を片柴(忍坂邑)に集めた。土蜘蛛を片柴(忍坂邑)に集めて、酒を飲ませて皆殺しにした。
 大谷から津山に行くことができる。
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 313号線の終点の近くに城田(別宮)を造り、その川下にいた出雲族を平定していった。伊勢でも戦った。伊勢から北栄町の茶臼山(伊那佐山)に船で行っている。八橋に笠縫邑を置いた。
 城田(別宮)からさらに鳥取県道34・30号線を穿ってつけた。香取集落から305号線で大山町前集落に行き船で阿弥陀川を下り、糺神社に至った。神武天皇は妻木晩田と長田集落をつくり、松尾頭地区で出雲族に宗教改革をさせた。
 神武が媛蹈鞴五十鈴媛と結ばれたのは伯耆町の久古神社であった。

神武天皇の段にある「宇陀」とは鳥取県倉吉市高城地区(楯縫郷)のことであった

​​ 神武天皇の段にある「宇陀」とは鳥取県倉吉市高城地区(楯縫郷)のことであった 

1 イツセとイワレヒコは西の米子市淀江の津から船で東郷池に入った。「波荒く立ち騒ぐ波速の渡」とは東郷池の入り口である。倭建命の言った「柏の渡」と同じ場所である。当時の東郷池は柏葉の形をしていた。
 戦前まで倉吉市上井町は日下村(草香村)であった。何度も洪水にあって標高が4m以上になっているが、当時は海面は海抜4mにあり、日下村の標高は4m以下であり、波もなく穏やかな津があった。日下村の白肩津(楯津=蓼津)は倉吉市清谷にあった津である。洪水で高くなっているが海抜4m以下の地点も残っている。清谷本村に上陸し坂を南に上がりナガスネヒコの攻撃を受けた。
 登美の地(饒速日の妻でありナガスネヒコの妹が住んでいた北栄町土下山周辺)に住むナガスネヒコ(中洲の豪雄)は対岸の倉吉市清谷にイワレヒコの船が到着したのを知り、軍を集めて一戦を挑んだ。トミビコ(ナガスネヒコ)の放った矢が、兄のイツセの命の手に刺さって深手を負わせた。傷を受けた手を洗ったところを血沼(茅渟)の海という。傷を洗った水は海水ではなく真水のはずだから海ではなく、より真水に近い東郷池の南岸であった。
 日本書紀・垂仁・石上神宮で「イニシキは茅渟の菟砥の河上においでになり、・・・」とある。茅渟(血沼)とは東郷池のことであり「菟砥の河上」とは東郷池の南の菟砥という陸地にある河上を意味し湯梨浜町川上のことであった。
 その後木国(智頭町)まで一旦退却した。そこでイツセ命は亡くなった。イワレヒコは山陽に出た。
 イワレヒコは広島県福山市を本拠地として倭国(鳥取県中部)を取り戻す機会をうかがっていた。
 しばらく、福山市を本拠地にして各地に住んでいた略奪集団の出雲神族(ナガスネヒコの一族=鬼・土蜘蛛・蝦夷)を平定したが、内つ国(鳥取県中部)に赴くため岡山県の旭川河口の龍ノ口山に到着し石上布都魂神社の地で高倉下に素戔嗚の剣を献上されて蒜山高原に至った。イワレヒコは蒜山高原の加茂神社と福田神社の祭神になっているので、蒜山高原を宿営地にしていた。
 蒜山高原(高天原)から高城地区(宇陀)に下りるルートを探して道に迷っているときに、道臣は関金の鴨ヶ丘にいたヤタガラス(鴨建津之身)を連れてきた。ヤタガラス(鴨建津之身)に道案内をさせて菟田穿邑(倉吉市高城地区の上大立)に下りてきた。上大立に下りるには江府町鏡ヶ成からスタートしなければならない。

2 神武天皇聖跡菟田穿邑は奈良の宇陀ではなく倉吉市上大立であった
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 穿って着いた邑が穿邑ではなく、たどり着いた邑から穿って道をつけたから穿邑という。ここでいう「穿つ」とは「押し分けて進む」ことを意味する。「鳥取県道313号線」と「広域基幹林道円谷広瀬線」は、神武天皇が穿ってつけた道である。出雲族に見つからないように、迂回して道をつけた。
 神武天皇は情報戦・ゲリラ戦をしていた。第2次大戦の日本軍ではなくアメリカ軍のように情報収集に力を注いだ。またベトナム軍のように道なき道を進んで敵から移動が見えないようにしていた。それができたのは、イワレヒコは倭国の地の利を知っていたし、旧知の者も多かったからである。
 イワレヒコが仮の本拠地にしていた穿邑は上大立であった。琴浦町下見から関金町大鳥居に至る鳥取県道313号線(下見関金線)は神武天皇がつけた。あまりに山道なので現在ではあまり利用されていないが林道ではなく、りっぱな県道である。上福田・下福田にいた出雲族の兄ウカシ・弟ウカシに気づかれずに移動するために県道313号線をつけた。

3 倉吉市下福田の阿弥大寺遺跡には弟ウカシの子孫が住んでいた。
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 下福田字阿弥大寺遺跡(弥生時代後期)
 日本書紀は「オトウカシは宇陀の主水部の先祖である」とする。
 下福田から上米積にかけての国府川(久米川)のほとりで3基の四隅突出型墳丘墓(弥生時代後期)が発掘された(阿弥大寺古墳群)。阿弥大寺古墳群より川寄りに二つの住居跡が検出された。「高城史」は墳丘墓と住居跡とを関連付けている。鳥取県中部に2400くらいある古墳はほとんど円墳(97%)なので、下福田字阿弥大寺遺跡に住んでいたのは出雲族(準王一族)のオトウカシの子孫の主水部であった。主水部は国府川(久米川)から水を汲む担当だったのかもしれない。遺跡の位置からそう思われる。
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 上大立(穿邑)から最初は、出雲族の拠点から見て盲点となる旧東伯町の奥に道をつけていった。終点である琴浦町下見の隣の別宮・矢下(ここの寺は四天王を祀る)・宮場・八反田・上法万もイワレヒコが開いた集落である。​​光好から​​笠見に至り、笠見と伊勢地区でも出雲族と戦っている。「撃ちてし止まむ」の歌はこの時の歌である。
 伊勢地区(天照大神がいたが占領されていた)から、船で北条砂丘に至り茶臼山(伊那佐山)で敵情を視察した。二人に土下山の土をもって下ろさせ、勝てるか占った。ここで「島つ鳥、鵜飼いがとも」の歌を詠んだ。この時に蜘ヶ家山(葛城山)の土蜘蛛を葛木のつるで捕らえた。
 イワレヒコが江府町鏡ヶ成から降りたことは江府町江尾にいたウマシマジの耳に入った。ウマシマジも穿邑に降った。イワレヒコは穿邑から関金方面にも道をつけていった。杉野・中野・森を合わせて吉野と言っていた。終点は関金の佐野大橋である。神武天皇は佐野命と言っていた。これは偶然ではなく、鳥取県道313号線は神武天皇がつけた道だからである。
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 佐野大橋から日吉神社に寄っているので、この時までにウマシマジは神武天皇に合流している。
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 日吉神社にて。日吉神社の祭神はニニギになっているが神社から船が出せるので本来の祭神は饒速日である。

4 鳥見邑は倉吉市富海であった。金色の鵄の話はここが舞台であった。倉吉市富海に長髄彦に率いられた出雲族がいたので、イワレヒコは見つからないように「円谷広瀬線」も造っている。すでに合流していたウマシマジは円谷広瀬線を造るのに協力していた。
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 出雲族のいた富海を避けて円谷広瀬線をつけた。倉吉市大宮は倭国の歴代天皇の皇居の中では一番奥にあるが、穿ってつけた円谷広瀬線より前にある。倉吉市大宮が橿原の宮である。
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 本来、こちらの関金側が起点である。
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 本来、こちらの円谷側が終点である。
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 円谷広瀬線が完成し、ウマシマジは円谷から橋を渡った石上(倉吉市大原)を本拠地にした。「昔ここに橋があった」と郷土史家は言う。
 イワレヒコは三朝町片柴(忍坂邑)に土蜘蛛を集めて酒を飲ませて皆殺しにした。三朝町片柴(忍坂邑)で土蜘蛛に酒を飲ませて殺したのは、三朝町山田(ヤマタ)で素戔嗚が八岐大蛇に酒を飲ませて殺した話にヒントを得たからである。三朝町片柴(忍坂邑)で土蜘蛛をだまし討ちにしてから、湯梨浜町羽衣石(墨坂)にいた兄磯城を挟み撃ちにして斬った。太陽を背にして南から平定していった。女軍と男軍が神武側に着いたのはウマシマジの功績である。

5 大久米は論功行賞で畝傍山の西の川辺の来目邑に住んだ。畝傍山は倉吉市の四王寺山であり、西は倉吉市服部の北の丘陵地まで久米ヶ原という。倉吉市服部の北の丘陵地は四王寺山(畝傍山)の西になる。
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 久米ヶ原の南に沿って流れている国府川のことを古代は久米川と呼んでいた。
 日本書紀・雄略天皇の段にも来目川が出てくる。
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 倉吉市上米積の南西に紀元前100年頃から500年頃にかけての後中尾遺跡がある。
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 遺構は14軒以上である。国府川(久米川)とは少し離れているが国府川(久米川)の近くであり大来目のいた来目邑の遺跡である。

6 記紀では「楯で防戦し、そこを日下の楯津という」とする。
 楯縫神社の由緒に「明治14年旧郷名に因み楯縫神社と改称す」とあるので、倉吉市高城地区の旧郷名は「楯縫郷」であった。
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 楯(青谷上寺地遺跡出土・弥生時代中期後葉)。弥生時代中期後葉は紀元前50年から紀元50年であり、神武天皇の即位(紀元前60年)以降に楯縫郷(倉吉市高城地区)で作られた。イワレヒコの軍にとって楯は重要な武具であった。戦いに勝利してからも大来目命は楯縫郷で楯を作っていた。
 「高城史」では「上福田に『楯縫』神社があり、『服部』が機織部で『大立(たて)』が『大楯』を製作する場所。『立(たて)見』は製品を検査する『楯検』ではないかと」とする。
 倉吉市高城地区では「立」を「たて」と読む。大立は「おおたち」という地名ではなく「おおたて」という地名であった。立見は「たちみ」という地名ではなく「たてみ」という地名であった。高城地区では楯(たて)を立(たて)の字に書き換えさせられている。
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 下神(しもつみわ)・上神(かみつみわ)・神代(みわしろ)の地域は大神(おおみわ)郷であった。立縫郷は楯縫郷であった。八橋郷は笠縫郷であった。
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 下神(しもつみわ)・上神(かみつみわ)・神代(みわしろ)の地域は大神(おおみわ)郷であった。立縫郷は楯縫郷であった。方見郷には建御名方がおり、由良郷には聖徳太子(蘇我入鹿天皇)がいた。倉吉市清谷は日下村でありその周辺が河内国であった。猛田とは竹田郷のことであった。琴浦町八橋の南には笠見があり、八橋が「倭姫命世紀」にある「倭国の笠縫邑」であった。
 楯縫邑(倉吉市大立)も笠縫邑(琴浦町八橋)も即位後、神武天皇が開いた。

※ 参考
(1) 古事記には「やがて一行の船は、波荒く立ち騒ぐ波速の渡を過ぎて、波静かな白肩の港に碇泊した。この時、登美の地(土下山周辺)に住むナガスネヒコ(中洲の豪雄)が軍隊を起こして、一戦を挑んだ。・・・楯を取り、岸部に下りて防戦した。この土地の名を楯津と言い、また今に、日下の蓼津とも言っている。・・・トミビコの放った矢が、兄のイツセの命の手に刺さって深手を負わせてしまった。
 ・・・南の方へ迂回し血沼の海に至って、傷を受けた手を洗った。それゆえここを血沼の海という。そこからさらに迂回して紀国(木国)の男之水門まで行ったところで・・・その息は絶えた。・・・カムヤマトイワレビコノ命はさらにその土地から迂回を続けやがて熊野の村へと着いた。・・・この土地から、道もない深山をさらに踏み越え、道を穿って難行をつづけながら、ようやく宇陀に達した。道を穿って進んだゆえに、宇陀の穿という。
 宇陀の地には兄宇迦斯・弟宇迦斯と呼ぶ二人の兄弟が頑張っていた。そこで、まずヤタガラスを使いに出して、二人の者に尋ねさせた。・・・兄宇迦斯の死んだ地を宇陀の血原という。
 イワレビコ命は次のような歌をうたった。『宇陀の高城に鴫ワナ張る・・・』
 このオトウカシは、宇陀の水部の部の先祖である。
 さらに旅を続けて忍坂の大室に到着した」とある。
(2) 日本書紀には「まさに、難波碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いた。よって名付けて波速国とした。また波花ともいう。今難波というのはなまったものである。
川をさかのぼって、河内国草香村(日下村)の青雲の白肩津に着いた。ナガスネヒコとくさえの坂で戦った。流れ矢がイツセの命のヒジハギに当たった。楯をたてて雄たけびを上げた。それでその津を改めて楯津と呼んだ。いま蓼津というのは、なまっているのである。
 軍は茅渟の山城水門についた。よってそこを雄水門と名づけた。
 進軍して紀の国の竃山に行き、イツセ命は軍中で亡くなった。・・・皇軍は内つ国に赴こうとした。そこにヤタガラスが飛び降りてきた。・・・ついに宇陀の下県についた。つかれたところは宇陀の穿邑という。ここで日臣を道臣と名づけられた。兄猾と弟猾は宇陀の県の人々のかしらである。・・・兄猾が死んだところを宇陀の血原という。
 天皇は歌を詠んでいわれた。『宇陀の高城に鴫をとるワナを張って・・・』・・・。
 また大来目を畝傍山の西、川辺の地に居らしめられた。今来目邑と呼ぶのはこれがそのいわれである。また弟猾に猛田邑を与えられた。それで、猛田の県主という。これは宇陀の主水部の先祖である」とある。

兄磯城と弟磯城は事代主と百八十神(出雲族)の子孫であった

 兄磯城と弟磯城は事代主と百八十神(出雲族)の子孫であった

1 大国主と事代主は親子ではない。大国主は素戔嗚の子であり、事代主は葦原中津国で大国主に蹴散らされた出雲族(百八十神)の頭であった。大穴持命や大穴牟遅神は歴代の出雲族の王名であり大国主ではない。出雲大社に祀られているのは大国主ではなく、出雲族の歴代の王であった。国譲り後、大国主は天孫族の4伴緒と一緒に湯梨浜町長瀬高浜・久留にいた。そこに高い建物を建ててもらった。
 事代主と百八十神(出雲族)は国譲り後、倉吉市福庭に到着し大平山に上がった。事代主と百八十神(準王一族=出雲神族)はいつまでも大平山におらず、生活の拠点を東郷池の水辺に移した。そこは湯梨浜町長和田であった。長和田が師木邑であった。

2 倉吉市福庭の波波岐神社の伝承に「事代主は近くの泉の畔で余生をおくられた」とある。
畔に使う用例として泉(いずみ)はおかしい。畔は普通、湖(みずうみ)に使う。これは長年の間に読みが替わったと解するべきである。当初は「湖の畔」であった。湖とは東郷湖とも言われる東郷池であった。
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 事代主と百八十神(出雲族)は長和田集落に移った。当時、長和田は海からの波が真直ぐに届いていた波延(はえ)の地であった。
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 長和田集落はほぼ海抜3mに海面があった時代(崇神天皇の時代)に今の集落の形が出来上がった。ほぼ水辺の内側に出来上がっている。周囲が水垣の集落であった。

3 北から見た湯梨浜町長和田集落(左は鳥取県、島根県で一番大きい前方後円墳)
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 国譲りの時代(紀元前160年頃)は長和田を囲むように水辺であったから、羽衣石川沿いに上がっていくしかなかった。
 先代旧事本紀・皇孫本紀に「椎根津彦が謀りごとを立てて申しあげた。『今はまず、女軍を遣わして、忍坂の道から出しましょう。敵はきっと精兵を出してくるでしょう。私は強兵を走らせて、ただちに墨坂を目指し、菟田川の水をとって、敵兵が起こした炭の火にそそぎ、驚いている間にその不意をつきます。敵は必ず敗れるでしょう』天孫(神武天皇)はその計りごとをほめて、まず女軍を出してごらんになった。・・・はたして男軍が墨坂を越え、後方から挟み討ちにして敵を破り、その梟雄・兄磯城らを斬った」とある。
※ 私見
 神武天皇は忍坂邑(三朝町片柴)で土蜘蛛を討ってから兄磯城らを斬った。
 兄磯城はこの奥で炭焼きをしていた。この奥の荒神社は荒ぶる神であった兄磯城の神社である。墨坂とは羽衣石川(菟田川)沿いの坂であった。
 女軍は写真左奥の忍坂の道より出た。それを見た兄磯城の精兵は出ていった。そのすきをついて椎根津彦は強兵を走らせて師木邑(長和田)から上がり炭火に水をかけた。男軍は三朝町山田から墨坂に上がり兄磯城を挟み撃ちにした。女軍・男軍は神武と旧知であったので寝返るのも早かった。
 弟磯城は神武天皇に従い磯城の県主になった。雄略天皇の時代、磯城の大県主は鰹木を上げた家を建てていた。湯梨浜町長瀬高浜遺跡から鰹木を上げた家形埴輪が出土した。古代人のジョークが垣間見える。
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 長和田から御冠山が見える。孝霊天皇は御冠山のふもとの湯梨浜町宮内(倭文神社)にいた。孝霊天皇は長和田から蠅(波延)伊呂泥と蠅(波延)伊呂杼を娶った。孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫の母である蠅(波延)伊呂泥は出雲族であった。
 倭国大乱の相手は出雲族であったが、卑弥呼の母親は出雲族であったので女王として共立した。孝霊天皇の皇子の大吉備津日子は崇神天皇であり、崇神天皇の母も蠅(波延)伊呂泥であった。崇神天皇は母の出身地(波延=水垣=長和田)に皇居(師木邑の水垣宮)を置いた。

神武天皇の「島つ鳥 鵜飼いがとも」の歌の舞台は奈良ではなく鳥取県北栄町であった

 神武天皇の「鵜飼いが友」の歌の舞台は奈良ではなく鳥取県北栄町であった

1  日本建国史 「曲学の徒」桂川光和より
 「楯並(たたな)めて 伊那佐の山の 木の間よも い行きまもらひ 戦えば われはや餓(え)ぬ 島つ鳥 鵜飼いがとも 今助(す)けに来ね。」この奈良の伊那佐山での戦いを歌ったものである。
 伊那佐山の木の間を行き来しながら、楯を並べ防戦しているが食べ物が無く飢えてしまった。鵜養(うかい)がとも(伴・供)よ早く助けに来い、という意味である。
 苦戦する兵が、食料の到着を待つ差し迫った歌である。現実感のある歌だと思う。
 興味深いのは「島つ鳥」である。従来鵜飼にかかる枕詞とする解釈は多い。しかし前に述べたように、この時代では枕詞というような、慣用的表現は確立していないであろう。
 神武は奈良盆地侵攻の前に、吉野や阿田(五条市阿田)など奈良県南東部を訪れている。吉野の阿田あたりでは鵜を使った漁法が早くから行われていたとされる。
 「鵜飼いのともよ」という語句が、この五條市阿田の住民を指した語句であることは容易に察しがつく。
 この阿田には小島、上島野、下島野という地名がある。島という地域である。まさにこの「島つ鳥」というのは鳥の鵜と、島という土地の名に掛かる掛け言葉である。

2 神武天皇たちがこもって戦った伊那佐山と神武天皇たちが使っていた楯。
 現在、伊那佐山(奈良)と稲佐の浜(出雲)は離れたところに造ってあるが、もともと「いなさ山」と「いなさの浜」は同じところにあった。それは周囲は砂だが山は隣の三輪(神)山のような砂の山でない(否砂)鳥取県北栄町の茶臼山であった。
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 島集落から見た伊那佐山(茶臼山)
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 伊那佐山(茶臼山)から天香久山(土下山)と島集落(縄文人の猿田彦一族がいた)を望む。
 神武天皇は天照大神のいた琴浦町の伊勢を取り返すために伊勢でも出雲族と戦った。伊勢から船で茶臼山(伊那佐山)にきて、敵情を偵察した。天香久山(土下山)までは中洲があり、中洲の豪雄と呼ばれていた長髄彦がいた。
 神武天皇は戦いに勝てるかどうか占うために、二人に天香久山(土下山)の赤土を下させた。二人が土を下したところが伊那佐山と天香久山との間にある土下集落である。
 手前の伊那佐山の木の間に楯を立てて戦った。中洲の右側は汽水池になっていた。向こうの島集落から来た猿田彦一族は汽水池で鵜飼いをしていた。
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 鳥取県の青谷上寺地遺跡で発掘された弥生時代中期後葉(紀元前50年頃)の楯
 神武天皇たちは伊那佐山(茶臼山)でこの楯を立てて戦った。

3 私見
 奈良には伊那佐山が作ってある。神武天皇はここに立てこもって戦ったと学者も思うようにしてある。桂川氏もこの歌の舞台は奈良であると疑問に思うこともなく信じ込んでいる。島は猿田彦一族がいたところであり、伊那佐山の目の前にある。島の猿田彦一族は神武天皇たちの目の前で鵜飼いをしていた。
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 紀元前60年頃は海抜が4mほど高かったから鳥取県北栄町はこのような地形となる。天神川の度重なる洪水により日下邑の楯津は埋まり、中洲は流され(弓原集落まで三角形の土砂の堆積が見られる)、長瀬高浜の弥生土器も流された。
 島からは縄文土器が出土しており、縄文人がいた。それは、天孫族に協力していた猿田彦一族であった。猿田彦一族は島から船を出し伊那佐山に近い汽水域で鵜飼いをしていた。五條市阿田というような遠くではなく、神武天皇たちの目の前で鵜飼いをしていた。
 「島つ鳥、鵜飼いがとも」とあるが、奈良に津はないので、藤原氏は「津」の読みだけ残して、漢字は消している。例えば葦原中国、黄泉平坂などである。
 この島はのちの磐余邑の中にあり、履中天皇が作った金繰溜池の近くに蘇我馬子大王は池辺双槻宮を造った。蘇我馬子大王は島大臣(王)と呼ばれていた。金繰溜池の池上で同棺複数埋葬の島古墳群が発掘された。池上の陵である。
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 道路右側の家の敷地から縄文前期~縄文晩期の連続遺物が発掘された。島集落に縄文前期から縄文晩期までの縄文人が住んでいた。それが徐福一行(天孫族)に協力していた猿田彦一族であった。「島つ鳥、鵜飼いがとも」とは猿田彦一族のことであった。
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 「魚を食いすぎるので鵜の駆除をします。〇時から〇時までこの土手は通行止めにします」倉吉市職員。それ以来、天神川の鵜が少なくなった。
 写真は、島の近くの天神川河口で2016年4月25日に写した鵜。茶臼山(伊那佐山)の横の北条川でも鵜を見た。汽水池はなくなっているが猿田彦一族(縄文人)が鵜飼いをしていた辺りである。
 島のとも(猿田彦一族)に飼われていた鵜の子孫!?

野口王墓古墳は八角墳であり、天武天皇の陵墓ではない。キトラ古墳の被葬者は高市大王であり、高松塚古墳の被葬者は忍壁大王である

 野口王墓古墳は八角墳であり、天武天皇の陵墓ではない。キトラ古墳の被葬者は高市大王であり、高松塚古墳の被葬者は忍壁大王である。

1 野口王墓古墳は天武天皇の陵墓ではない。天武天皇は倭国王であり、倭国王の陵墓は円墳か前方後円墳である。
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 御廟野古墳は八角墳であり、百済王の古墳である。天智は百済王であり、御廟野古墳は天智(豊璋)の古墳である。
 天武天皇の父は蘇我善徳大王であり、その陵墓は藤ノ木古墳であり、円墳である。天武天皇の子の高市大王のキトラ古墳も円墳である。また、天武天皇の子の忍壁大王の高松塚古墳も円墳である。天武天皇は倭国大王であり、その陵墓は円墳である。野口王墓古墳は八角墳であり、倭国王の天武天皇の陵墓ではない

2  キトラ古墳の被葬者は高市大王である。
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 現在は工事中である。
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 キトラ古墳は平成28年度に開園予定である。

3  高松塚古墳の被葬者は忍壁大王である。
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 高市大王の次は忍壁大王であった。

4  私見
(1) 忍壁大王の皇居は鳥取県中部にあり、青谷で女子群像の描かれた木板が出土したが、何もおかしくはない。当時、都であった鳥取県中部に属していた鳥取県青谷町から高松塚古墳の彩色壁画によく似た女子群像の板絵が見つかっても不思議ではない。
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 青谷横木遺跡で墨で描いた女子群像の板絵が出土したことについて、百橋教授は「中国大陸や朝鮮半島の墓葬文化が日本では都の奈良以外にも波及していた可能性を示す史料」とし、他地方でも次々見つかるであろうとするが、都は鳥取県中部であったから青谷で見つかるのは当然としても、他地方で見つかることはない。
(2) 大伴家持の奈良(?)の都大路を思って詠んだ歌「春の日に はれる柳を 取り持ちて 見れば都の 大路し思ほゆ」などで、都に通ずる道路には柳の街路樹があることが明らかとされていたが、鳥取県の青谷横木遺跡で柳の街路樹跡が全国で初めて見つかった。
 その解説として「平城京の朱雀大路(?)には柳の並木が植えられていた。地方(?)の街道にも街路樹が植えられていたことを裏付ける」とする。
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 大伴家持は父旅人から都(16歳=734年まで鳥取県中部が都)のことを聞いて育っていたし、越中国に赴任する746年(28歳)までに鳥取県中部にも来ていた(難波高津宮=湯梨浜町松崎神社にも来ていた)ので、大伴家持の歌う「都」とは鳥取県中部のことであった。
 平城京の朱雀大路で柳の街路樹跡が見つかることはない。
(3) 倭国が指名した天武天皇の次は高市大王であり、次は忍壁大王であった。兄弟承継は過去にもあったことでありおかしくはない。「孝元・開化・崇神」、「仁徳・応神」、「履中・反正・允恭」、「安康・雄略」は兄弟承継であった。彩色古墳は現在のところ2つしか見つかっていないが、被葬者が大王にふさわしいすばらしいものである。高市王子も忍壁王子も大「臣」になったとされているが、それは亡命百済人の藤原氏が倭国の大王を下僕として描くための改ざんであり、高市王子も忍壁王子も大「王」であった。
 持統や文武の古墳を高市大王(696年没)や忍壁大王(705年没)の古墳よりもりっぱなものを造ることが難しいため、火葬にしたことにした。盗掘して壊そうとしたのは藤原氏である。キトラ古墳の獣頭12神図は統一新羅(668年~)に似たものがある。どの学者も日本書紀に騙されているのでこのことを指摘しない。
 キトラ古墳を描いたのは倭国(鳥取県中部)に来ていた統一新羅の職人である。倉吉市大原を流れる川を志(新)羅谷川といい、倉吉市駄経寺町にあった天武天皇の造った大御堂廃寺(泊瀬の斎宮)(663年~)は新羅様式であった。倭国(鳥取県中部)に統一新羅の職人が来ていたのであり、統一新羅の職人は奈良でキトラ古墳の彩色を手掛けた。同じく高松塚古墳(705年の数年後)も高句麗の職人ではなく、倭国(鳥取県中部)から派遣された統一新羅(668年~)の職人によって描かれた。​

倭姫命は「迹々日百襲」を省略された倭迹々日百襲姫命であった

1  讃岐国における倭迹々日百襲姫命の農業開発
 香川県の説明板によれば、倭迹々日百襲姫命は土地の人に弥生米をあたえて、水路を開き、日照に苦しむ人々のために雨祈で、雨を降らせ、水源を教え、米作りを助けたといわれている。
 倭迹迹日百襲姫命は農業・水の神と伝えられている。香川県は全国有数の雨の少ない県である。そのために溜池が多い。讃岐国でため池を作ることを最初に思いついたのは倭迹迹日百襲姫であることも考えられる。そうなれば、讃岐国で、農業の神として祭られている理由も説明がつく。
 当時の讃岐国は凶作の年が続いていた。彼女のアイデアで次々と農業開発が行なわれ人々の生活は次第に潤っていった。このときに溜池を作ることを考え出したものと思われる。

2  志摩国における倭姫命の農業開発(倭姫命世紀より)
 「倭姫命は鳥の鳴声が高く聞えて、昼夜止まずかまびすしかったので、『此、あやし』と宣して、大幡主命と舎人の紀麻良を、使に遣って鳥の鳴く処を見させた。行って見ると、志摩国の伊雑の方上の葦原の中に稲一基があり、根本は一基で、末は千穂に茂ってゐた。その稲を白真名鶴がくわへて廻り、つついては鳴き、これを見あらわすと、その鳥の鳴声は止んだ。
 倭姫命がのたもふに、『恐し。事問はぬ鳥すら田を作る。天照皇太神に奉れる物を』と詔して、物忌(ものいみ)を始められ、かの稲を伊佐波登美神(伊射波神社の祭神)をして抜穂に抜かしめて、天照皇太神の御前に懸久真に懸け奉り始めた。その穂で大幡主の女子乙姫に清酒に作らせ、御餞に奉った。かの稲のおひし地は、千田となづけ、志摩国の伊雑の方上にある。その処に伊佐波登美(伊射波神社の祭神)の神宮を造り奉り、天照皇太神の摂宮と為した。伊雑宮がこれである。かの白真名鶴を名づけて大歳神といふ」とある。

3 磯部町千田御池跡の説明板
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 聖徳太子(蘇我入鹿天皇)もこの地に遊覧し感嘆され、多くの殿堂を建てられた。

4 磯部の伊雜宮
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  磯部の伊雜宮本殿
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  磯部の伊雜宮本殿 
 シンプルで敷地も広くないので、藤原氏の手はそれほど加わっていないものと思われる。
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 ここにも心の御柱がある。「中央の祠は遷宮のときに心の御柱を立てる目印である」と伊雜宮の宮司は言った。こちらが本家である。
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 伊雜宮より280m離れたところにある千田の御池跡 溜池か苗代であったと思われる。
 この後ろに持統が造らせた勅賜門(正月7日間だけ開く不開門)があったらしいが崇りを封ずるための藤原氏によるものである。
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 伊雜宮の南に隣接する御料田で6月に行われる伊雜宮の御田植祭は日本三大御田植祭に数えられている。(伊雜宮前の説明板より) 
 鳥取県琴浦町方見神社の由緒には「当社は明治維新まで天照皇大神宮と称せし。当社には往古より大田小田と称する神田あり。大田は朔日田と唱え9月1日この田の稲を神供に炊ぐ。小田は毎日田と唱え、この田の稲をもって部内諸神に供す。氏子の内より13歳未満の女子12人を挙げ、神酒上げ神饌炊ぎとす。これを「三ケノオコラ」という。永久に相伝う。この田を植える時は御田植祭を行い官丁を課当せられしこと当社の伝記および古文書に明らかなり」とある。
 本当の天照皇大神宮ならば御田植祭があるはずである。伊雑宮にはあるが伊勢神宮にはない。

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 大正末期、この石の下から鏡や勾玉が出てきたが官憲に持ち去られこの地の鑑定は封じられてしまった。里人は倭姫さんの遺跡であろうという。(説明板より)


5  倭迹々日百襲姫命も倭姫命も水田稲作を普及させていた。
倭姫命は「迹々日百襲」を省略された倭迹々日百襲姫命であり、同一人物と思われる。


6  鳥取県日光村の山田神社にいた孝霊天皇に「笹の葉を積み上げて南風が吹くのを待て」と告げた天津神は隣りの吉原神社にいた稚日女命であり、稚日女命は「神意を伺い・まじない・占い・知能の優れた」孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫命であった。倭迹迹日百襲姫命(稚日女命)は鳥羽市安楽島町の伊射波神社を終の棲家とした。伊射波神社では海女がアワビを朝廷にもっていく前に倭迹迹日百襲姫命(稚日女命)に献上していた。その朝廷とは纒向にあった朝廷であった。
 倭姫命は巡行の最後に志摩市磯部町の伊雑神社に至り伊射波登美に天照大御神を祀らせた。倭姫命は海女の祖のお弁にアワビを献上された(海士潜女神社由緒より)。
 同じ志摩国の同じ一之宮の同じ読みの神社(いざわ)で同じくアワビを献上された姫は同一姫であったと考えるのはおかしくない。倭迹迹日百襲姫命(稚日女命)と倭姫命はアワビの殻が多く見つかった纏向遺跡と同時代の姫であった。
 倭建命は12代景行天皇の曽祖父くらいの先祖であり(藤原氏の転写ミスより)、後に天皇となっていた(倭武天皇)。倭建命は11代垂仁天皇や10代崇神天皇ではない、赤子の時に海流に乗って但馬(竹野川流域)に疎開し11年ほど但馬(竹野川流域)に住んだ9代の開化天皇であった。倭建命は吉備国を平定している(鳥取県関金町の伝承より)。若日子建吉備津日子も吉備国を平定している。倭建命は孝霊天皇の皇子の若日子建吉備津日子であった。倭建命と倭姫命は一緒に全国を巡行している。倭姫命は倭建命の姉の倭迹迹日百襲姫命であった。倭姫命は巡行しながら、自ら神社を創建しているので(倭姫命世紀より)神道を創始した崇神天皇(大吉備津日子)とも同時代の姫であった。
 藤原氏は魏志倭人伝と同じでは都合が悪いので7代孝霊天皇皇女の倭姫命(卑弥呼)と11代垂仁天皇皇女の豊鋤入姫命(台与)との順序を変えた。そのための整合性を謀らなければならなかったが欠史8代の旧辞に触れることは禁止されていたので、豊鋤入姫命を10代崇神天皇の皇女とし、倭姫命を11代垂仁天皇の皇女とした。

「天の安河の河原」は鳥取県江府町下蚊屋明神の地であった

「天の安河の河原」は鳥取県江府町下蚊屋明神の地であった


宮崎県高千穂町の「天の安河の河原」は行かれた方も多いと思う。
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しかし、本当の「天の安河の河原」は鳥取県江府町下蚊屋(さがりかや)明神の地であった。

1 以前は鳥取県の大山西麓に思金神を祀る神社が多く、高天原は蒜山である、としながら「天の安河の河原」はどこか知らないと答えていた。しかし、高天原と思金神を祀る神社が多い大山西麓との間にあるはずであると思い調べてみた。
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2 思金神が一番東(蒜山高原に一番近い)に祀られている神社は江府町の貝田神社である。
 貝田集落の山側に大河原という地名がある。ここだろうか。いや、地名に惑わされてはならない。
 それでは、思金神がいた貝田集落だろうか。貝田神社は河原とするには河から離れている。
 貝田神社の案内板に「貝田集落は天保時代以前からサワラの木を使い杓子・柄杓・メンコ等を製作してきた。今でもその歴史をとどめるべく作品が保有されており、地域周辺集落(下蚊屋、俣野)との連携による当時の産業として成立していた」とある。
 蒜山の徳山神社と下蚊屋集落の距離より貝田集落と下蚊屋集落の距離のほうが遠いのに両集落は古くから連携していた。下蚊屋集落には山口神社と下蚊屋明神がある。行って調べてみる価値はありそうだ。

3 下蚊屋明神
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 下蚊屋明神は少し高いところにあるが、すぐ下は本谷川である。河原と呼べる場所にある。この本谷川をさかのぼって行けば猿田彦が待っていた鏡ヶ成に至る。
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左上の鳥居が下蚊屋明神
左から滝が流れている情景は宮崎県高千穂の天真名井の滝に似ている。
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左は下蚊屋明神。橋の下は本谷川。
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左下の道は下蚊屋明神に至る。左上の道は鏡ヶ成に至る。右上の道は蒜山に至る。手前に行けば江尾神社(祭神 饒速日命)、貝田神社に至る。
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下蚊屋集落。右下に先ほどの橋が見える。