天孫降臨は2回に分けて行われた。1回目の饒速日命と天照大御神と月読命ほか大勢の降臨

 天孫降臨は2回行われた。最初は饒速日・天照大神・月読命ほか大勢であった。 


1 鳥取県江府町鏡ヶ成から降臨したのは瓊々杵か饒速日か。

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 高天原は蒜山高原であった。饒速日は江府町江尾神社の祭神であり、瓊々杵は長田神社と加茂神社の祭神になっている。

 鏡ヶ成は猿田彦が鏡を光らせていたところであり、天鈿女がその理由を聞きに訪れたところである。鳥取県江府町鏡ヶ成から降臨したのは同じ江府町の江尾神社にいた饒速日と思われる。天照大神と月読命は5伴緒(天鈿女を含む)と思金神、手力男神、天石門別神とともに三種の神器を副えて、饒速日とともに鏡ヶ成から関金の神田神社に降臨した。江尾神社と下蚊帳と鏡ヶ成は江府町に属しており同じ町内にある。饒速日は江尾から下蚊帳で蒜山高天原にいた八百万神と合流し、鏡ヶ成に上がって、関金の神田神社に降臨した。

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 瓊々杵はわざわざ加茂神社の地から鏡ヶ成まで行かなくても近くの犬挟峠を越えて矢送神社に降りればよい。矢送神社にはすでに降臨していた天児屋根と天太玉が待っていて矢送神社で瓊々杵を守った。矢送神社の祭神は五伴緒のうち天児屋根と天太玉だけである。豊受姫と和久産巣日神は幼い天香語山や瓊々杵の乳母の役割りを果たしていたのかもしれない。天忍穂耳は素戔嗚と同じように木国(智頭)か御真木国(津山市)で瓊々杵を生んだのではないだろうか。瓊々杵は旭川の下流から来たように思われる。従って、瓊々杵は大山町上萬の壱宮神社で生まれたのではなく、壱宮神社で生まれたのは饒速日の可能性が高く、壱宮神社の祭神は饒速日であった。


2 先代旧事本紀にある饒速日の降臨

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(1)「記紀の天孫降臨」より「先代旧事本紀の天孫降臨」の記述のほうが史実に則しているように思われる。天孫降臨は史実では2回行われた。先代旧事本紀では、まず最初に饒速日が天降ったのであり、天照大神・月読命・五伴緒など大勢もその時降り立った。
 ただ「船長が梶取等を率いてつかえた。饒速日尊は天磐船に乗って・・・」は京都で暇を持て余していた藤原氏が書いた空想科学小説である。また、「熊野で毒気にあたった」とあるのも藤原氏の手が加わっている。原古事記には「イワレヒコの福山市・尾道市を中心とした活動」が書かれていた。
 饒速日ははじめ河内国(日下邑あたり)の河上の哮峰(倉吉市八幡神社のある峰)に到着し、やがて大倭(鳥取県中部)の鳥見の白庭山(倉吉市の向山)に移った。この鳥見の白庭山は通説では、奈良県桜井市の外山のあたりと言われている。しかし、天照大神は鳥取県琴浦町伊勢野に降臨していたし、五伴緒の降り立った場所も鳥取県中部に特定できるため、饒速日も鳥取県中部に降臨している。鳥見の白庭山とは倉吉市の向山(夏谷)であった。
 饒速日は神田神社までは天照大神たちと一緒に降臨した。河内国とあるが、これは日下邑あたり(北は倉吉市清谷から南は倉吉市上余戸までは日下邑であった)であった。河内国の河上の哮峰とは、それまでに素戔嗚・宇迦之御魂(須勢理姫)・大国主の住んでいた現在倉吉市八幡神社のある峰であった。宇迦之御魂・大国主は宇迦之山(北栄町の茶臼山)に行き少彦名とともに西日本の各地を訪れて国造りをした。少彦名がいなくなったので大国主は困っていた。宇迦之御魂(須勢理姫)は素戔嗚にそのことを告げた。
 倉吉市八幡神社のある哮峰に饒速日・天忍穂耳・猿田彦・天香語山・豊受姫・和久産巣日神たちが高天原から降ってきたので素戔嗚は饒速日に天璽瑞宝十種を授けるとともに、饒速日の父の天忍穂耳に大国主の国造りに協力してくれるように頼んだ。天忍穂耳(大物主)と猿田彦は船で茶臼山の東の内海に至り、大国主に会ってから、それぞれ北栄町下神の三輪山と隣の松神を本拠地とした。

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 饒速日は倉吉市余戸谷町の清熊稲荷神社の峰(哮峰)にしばらく居て天若比古の報告を待っていた。天若比古は饒速日の降臨コース上(倉吉市寺谷の矢の宮神社)にいたため使いを出されたが、使いを殺したので殺された。饒速日は倉吉市の向山(鳥見の白庭山)に降臨し定住した。

 茶臼山(伊那佐山)にいた大国主は天児屋根・太玉命・玉祖命・天宇受売(5伴緒の4人)と一緒に湯梨浜町長瀬高浜(多芸志)に、思金神は湯梨浜町長和田に降臨した。四伴緒と大国主は多芸志(鳥取県湯梨浜町長瀬高浜と久留)に住んだ。久留神社の祭神は大国主という説が有力である。大国主は国坂神社・下神の三輪山との間を行き来していた。久留神社の祭神は天児屋根ではなく大国主であった。長瀬神社の祭神は天児屋根・天太玉・天鈿女である。玉祖命は祭神になっていないが長瀬高浜から移動することなく玉を作っていた(長瀬高浜遺跡発掘調査報告書より)。饒速日が亡くなってから、天児屋根と天太玉は瓊々杵を迎えに矢送神社に帰った。

(2) 出雲神族の富氏の口伝によると「ホヒ(天穂日)は出雲神族と婚姻関係を結んで、後続部隊の手引きをした。出雲神族の反乱を防ぐため、神武から数代の王は、出雲の王家の娘を妻に迎えた」とある。先代旧事本紀に「饒速日尊は長髄彦の妹三炊屋媛を妻とし、宇摩志麻治命が生まれた」とあるのは信じられる。饒速日が亡くなってからも長髄彦や妹の三炊屋媛は宇迦之山(茶臼山)との間の中洲や倉吉市の向山(鳥見の白庭山)や哮峰(清熊稲荷神社の峰)周辺にいた。大己貴神(オオナムチ)と長髄彦は出雲神族(準王一族)の王名である。天穂日は鳥取県八頭郡大江郷で生まれた大国主を生まれた時からかわいがっていたので、出雲国に移ってから長髄彦を大己貴神(大国主)と呼んだ。出雲神族の王は代々、長髄彦であり大己貴神(オオナムチ)を名のった。大己貴神(オオナムチ)は出雲神族(準王一族)の代々の王名である。

(3) 古事記・日本書紀ならば瓊々杵命と磐余彦命との間には彦火火出見と鵜草葺不合の二人が入るのだが、先代旧事本紀の天孫本紀には「天孫天津彦々火瓊々杵尊の〔孫〕磐余彦尊が、天下を馭ようとして東征した」とある。彦火火出見と鵜草葺不合は一人であり鵜草葺不合は彦火火出見のあだ名ではないかと思われる。そう解することで、宇摩志麻治命は磐余彦尊の叔父くらいの年齢差になり同時代に生きていたことになる。宇摩志麻治命は父が住んでいた江府町江尾に移り住んでいた。

3「伊勢国風土記」逸文「国号の由来」

(1) 古事記・葦原中津国平定の段の建御名方神と建御雷神の説話は藤原氏によるのちの創作である。原古事記には伊勢国風土記の説話が書かれていた。天照大神が降臨しようとした邑には神がいて名を建御名方神といった。その邑は鳥取県琴浦町の方見邑であった。今の加勢陀川周辺である。

 原古事記には「建御雷神(天日別命)は建御名方神に『汝の国を天孫に献上したらどうか』と問うた。すると答えて『私はこの国を占拠してから長いこと住んでいる。命令には従いかねる』といった。建御雷神(天日別命)は兵を発してその神を殺そうと思った。するとそのとき恐れて平伏して申しあげるには、『私の国はことごとく天孫にたてまつりましょう。私はもうここにいるようなことは致しますまい』と。建御雷神(天日別命)は問うて、『お前がこの国を去ったとき、なにをもってそれを証拠だてるか』といった。すると申しあげていうには、『私は今夜をもって八風(大風)をおこし海水を吹き上げ波浪に乗って東の方にまいりましょう。これが私が退去したという証拠です』と。建御雷神(天日別命)は兵を整備してその様子をうかがっていると、夜更けになって大風が四方に起こり、大波をうちあげ、太陽のように光りかがやいて陸も海も昼のようにあかるくなり、ついに波に乗って東に去った。〔建御名方神は、信濃の国に住ませた。〕」とあった(「伊勢国風土記」逸文「国号の由来」より)。

 加勢陀川の東には斎尾・槻下という地名があり漢字変更の前は斎王・月下であった(方見神社由緒より)。天照大神(徐福)は斎王に降臨し、月読命は月下に降臨した。藤原氏は、天照大神を神武天皇に、建御名方命を伊勢津彦に、建御雷神を天日別命に変えて伊勢国風土記を作った。そして建御名方命の国譲りの部分を日本書紀から削除した。

(2) 最初の天孫降臨は天照大神・月読命・饒速日命・5伴緒など大勢の一行であった。饒速日命は鏡ヶ成から関金町の神田神社まで天降った。天照大神や月読命や5伴緒も一緒であった。天照大神は方見邑を譲るように建御雷神を建御名方神に遣わした。建御名方神が去ったので、天照大神・月読命・石凝姥命(5伴緒の1人)・手力男命・天石門別神は、神田神社から県道50号線を通って琴浦町斉尾・槻下・加勢陀川西岸に到着した。

(3)「伊勢国風土記」逸文「国号の由来」にある「天孫」とは饒速日命のことであった。古事記の「天孫」も饒速日であった。藤原氏は原古事記にあった最初の五伴緒の随伴した饒速日の降臨の記述を瓊々杵の降臨に流用した。瓊々杵の降臨に五伴緒は随伴していなかった。


4 丹後国由良川の伝承は鳥取県北栄町由良川の伝承であった。

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 小沢打魚氏の説と称する古代由良に関する史実には「皇孫瓊瓊杵尊が此の国土に御降臨あらせられる前、天照大神から大国主命の国土奉環の大命を伝へるべく遣はされられた、経津主、建御雷の二神に対して、大国主命の御子建御名方命軍が由良川を界として御守りになったものである」とする。

※ 私見

 この説話はもともと鳥取県北栄町の由良川が舞台であった。奈良時代までは語り継がれてきたが、藤原氏によって丹後の由良川に移された。

 小沢打魚氏は「皇孫瓊瓊杵尊が此の国土に御降臨あらせられる前、天照大神から大国主命の国土奉環の大命を伝へるべく遣はされられた、経津主、建御雷の二神に対して、大国主命の御子建御名方命軍が由良川を界として御守りになったものである」とされ、降臨の地の舞台を丹後の由良川とされる。この伝承の由良川は葦原中津国に流れ込む鳥取県北栄町の由良川であった。丹後の由良川はそのほかの舞台(葦原中津国など)が整っておらず、あとが続かない。鳥取県北栄町の由良川ならば時間的にも場所的にも前後がそろっていて、きれいにつながる。建御雷は北栄町妻波の岩崎神社の祭神になっている。建御雷は国譲り後、葦原中津国(北栄町妻波)に残り、住んでいたと思われる。


5 瓊々杵命の降臨

 饒速日は天穂日の縁結びで長髄彦の妹三炊屋媛と結婚したが、宇摩志麻治が生まれる前に亡くなった。2回目の降臨は瓊々杵命・天児屋根・太玉命・和久産巣日神・娘の豊受姫たちであった。瓊々杵命・天児屋根・太玉命は関金町の矢送神社(矢送神社の祭神)から、倉吉市上福田の楯縫神社に移りしばらく住んでいた。葦原中津国にいた百八十神(大国主の兄の八十神とその子・出雲神族)が成長するのを待っていた。百八十神が成長したので瓊々杵は北栄町の大宮神社に降臨した。その時案内した猿田彦は「瓊々杵命を日向(葦原中津国)に案内してから伊勢(天照皇大神宮・外宮の月下の宮)に行きます」と言った。瓊々杵命と天児屋根は日向(大宮神社、穂波)に、太玉命と和久産巣日神と娘の豊受姫は伊勢(中尾と槻下)に降臨した。


6 参考 先代旧事本紀の天孫降臨 

―天神本紀―

  天照大神は、豊葦原之千秋長五百秋長之瑞穂国は子の正哉吾勝々速日天押穂耳尊が治める国であるとして、天降りさせようとした。ところが準備している間に子が生まれたため、押穂耳尊はこの子を天降りさせるべきであると天照大神に申し出て、天照大神はこれを許した。天神御祖は天璽瑞宝十種を授けた。三十二人の護衛がつかえ、五部の人が従い、天物部を率い、天物部等二十五部のひとがつかえ、船長が梶取等を率いてつかえた。饒速日尊は天磐船に乗って河内国(日下邑あたり)の河上の哮峰(清熊稲荷神社の峰)に天降り、さらに大倭国(鳥取県中部)の鳥見の白庭山(北栄町の土下山)に遷った。

  饒速日尊は長髄彦の妹三炊屋媛を妻とし、子が生まれないうちに亡くなった。

  天照大神はこのあとまた、豊葦原之千秋長五百秋長之瑞穂国は子の正哉吾勝勝速日天押穂耳尊が治める国であるとして、押穂耳尊を天降りさせることにする。そんな折、押穂耳尊は高皇産霊尊の女栲幡千々姫萬幡姫命を妻とし子が生まれた。その子は天津彦々火瓊々杵尊と名づけられた。押穂耳尊はこの子を天降りさせたいと天照大神に申し出て、天照大神はこれを許した。

  正哉吾勝勝速日天押穂耳尊は、高皇産霊尊の女萬幡豊秋津師姫命亦の名栲幡千々姫命を妻とし、二男をもうけた。兄は天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊であり、弟は天饒石国饒石天津彦々火瓊々杵尊である。

―天孫本紀―

  天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊。亦の名は天火明命、天照国照彦天火明命、饒速日命、膽杵磯丹杵穂命という。天照大日?貴尊の太子正哉吾勝々速日天押穂耳尊が高皇産霊尊の女豊秋津師姫栲幡千々姫命を妻とし生まれた子である。天祖より天璽瑞宝十種を授かり、天磐船に乗り河内国(日下邑あたり)の河上の哮峰(清熊稲荷神社の峰)に天降り、さらに大倭国(鳥取県中部)の鳥見の白庭山(天香久山=土下山)に移り定住した。

  饒速日尊は長髄彦の妹三炊屋媛を妻とし、宇摩志麻治命が生まれたが、宇摩志麻治命が生まれる前に饒速日尊は亡くなった。 

  饒速日尊は天上にいるとき、天道日女命を妻とし、天香語山命が生まれた。天降って三炊屋媛を妻とし宇摩志麻治命が生まれた。天香語山は亦の名を高倉下命といい、磐余彦尊が熊野で毒気にあたったとき剣をもって助けた。

  天孫天津彦々火瓊々杵尊の孫磐余彦尊が、天下を馭(おさめ)ようとして東征した。中洲の豪雄長髄彦は饒速日尊の子宇摩志麻治命を君とし、天孫に二種あるはずはないとして抵抗した。宇摩志麻治命は長髄彦の謀には従わず、長髄彦を殺して軍を率いて帰順し、饒速日尊より授かった天璽瑞宝十種を天孫に献上した。

  大歳辛酉正月一日、天孫磐余彦尊は橿原宮に都をつくり即位した。姫蹈?五十鈴媛命を皇后とした。これは大三輪の神(大国主)の女である。






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