事代主の終焉の地


1  ワタラガヒ(お旅所)
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 事代主が船で到着したワタラガヒ(お旅所)は神社の800m離れた空き地であり、祭りはそこからスタートする、と地元の方は言われる。しかし、地元の歴史家は「灯篭のあるところ」と言われる。神社から200mの距離である。いずれにしても事代主は美保関(海中)から、北栄町の亀谷(神のクシフルネ)に帰り、船を乗り換えて、福庭の地に到着した。
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 国を譲るまでは、事代主は亀谷から、蜘ヶ家山(葛城山)を通って、茶臼山(伊那佐山=宇迦能山=大神山)にいた大国主に会いに行っていた。雄略天皇は葛城山で事代主の幻影を見た。蜘ヶ家山(葛城山)は今でもイノシシが獲れる。

2  倉吉市福庭の波波伎神社
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 「ヤマト朝廷(奈良ではなく天孫族は鳥取県中部に降臨していた)は、事代主が乱を起こすのを恐れて、毎年(?)、当地まで使者を遣わして、その動静を監視していた」(大意)との伝承もある。
 福庭という地名は徐福一行が住んでいたことを示している。福庭には徐福一行(倭朝廷)の数名が住んでいた。まだヤマト朝廷などと言うものではないが、毎日でも様子を見に行っていたはずである。事代主はこの近くの泉の畔で余生を送られ、そこで生涯を終えた、という伝承があるが泉(いずみ)ではなく、湖(みずうみ)であった。
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 事代主と百八十神は湖(東郷湖)の畔(湯梨浜町長和田)移り、事代主はそこで余生を送られ、生涯を終えた。事代主の子孫が弟磯城であり、磯城県主となった。長和田は波延(ハエ)の地であり、孝霊天皇の妃の蝿姉妹(出雲神族)は長和田の出身であった。崇神天皇(大吉備津日子)は母親の出身地に皇居(師木水垣宮)を置いた。

3  「波波伎」の神社名は元禄時代までは倉吉市大原の大原神社の神社名であった。元禄時代に倉吉市大原にあった波波伎神社の神社名をこちらへ移した。事代主が居たのだからそれにちなんだ神社名であったはずである。由緒にある「天栄手の宮」かも知れない。島根県の美保神社とは最近まで交流があったそうである。
 藤原氏は元禄時代にあちこちでつじつま合わせ(整合)をしている。京都にいた藤原氏は鳥取県中部を「こんな田舎」と言って1200年の間さげすんできた。今でも京都人は鳥取県中部に来ると必要以上に「こんな田舎」という。京都人は鳥取県中部に来るとその言葉が出てくるようにしてあるようである。明治維新で京都の3分の1は東京に移ったが、東京に移った藤原氏はどうか。「鳥取県は観光だけでやって行けばよい」と政府関係者は言うそうだ。

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