実在した倭建命(第9代開化天皇)


1  倭建命については鳥取県中部に二か所伝承が残っている。
 鳥取県倉吉市(旧関金町)に、ヤマトタケルが伯耆と美作国境の矢筈仙の山頂の岩石の上に立ち、「この矢のとどく限り兇徒、悪魔は退散して我が守護の地となれ」と念じ矢を放った場所が塔王権現で、現在は石祠と石塔が残る。また、放った矢は現在の倉吉市生竹まで飛び、その地の荒神が受け止めたといわれ、「矢留の荒神さん」と呼ばれる神社が建立されている。
※ 私見 これは中国地方の倭の大乱の出来事と思われる。卑弥呼が18歳位の時から皇軍に加わって中国地方の倭の大乱を平定していっているから、倭建命は12歳位になっていたはずである。吉備津彦(崇神天皇)や卑弥呼たち(皇軍)と一緒に瀬戸内側から蒜山に来て、関金に降りてきたものと思われる。どんなことがあっても伯耆国を取り返すという強い意志が感じられる。
 また、鳥取県北栄町宮崎神社の由緒には「是に於て孝霊天皇の御宇皇子大日本根子彦国牽尊、土人の為今の本社地に御祖伊邪那岐命・伊邪那美命を奉齋し給ひき。是れ本社の濫觴なりと。斯くて数十年を経て景行天皇の御宇、皇子日本武尊征西の御時、北海の霪風御艦を悩まし奉りしが不思議の神助にて御艦引寄するが如く本社地乾の隅に着御し給へり。尊大に歓喜し給ひて宣はく 斯く清らかなる地の海面に浮出つるはこは浮洲にや と。是より社地を称して浮洲の社と云ふ。洲の中央に大麻を挿立て御自ら御飯を爨き給ひて二尊を祭り神助を謝し給へり。御飯を炊き給ひし地は本社の北にあり今飯ノ山といふ。斯くて其後風波穏やかになりければ如何なる御訳にや。小艇は此地に置き給ひて、御艦に召され進発し給ひしと云ふ。・・・又御難風の御時尊の御沓一隻海に失い給いしが後潮引ける時本社より西方なる山岸によれり。土人この沓を奉して祀れり。是今の汐宮なりという」とある。
※ 私見 第8代孝元天皇は、第6代孝安天皇の皇居があった北栄町島(室秋津島)で伊邪那岐命・伊邪那美命を奉齋した。第8代孝元天皇は倉吉市小田(軽原宮)にいたから北栄町島に来ても不思議ではない。この地は、辰韓から来た三貴神を伊邪那岐が迎えた地である。
 「日本武尊が征西の御時、北海の霪風が御艦を悩ましたが、不思議の神助にて御艦引寄するが如く着かれた」とある。倭建命と卑弥呼は、新羅から島根半島の日御碕→片江から帰還した。本社地乾の隅に泊めていた御艦には卑弥呼も乗っていたはずである。北栄町島に着いたのは、卑弥呼の指示であった。今までの巡行と三韓征伐の成功と安全(神助)を孝元天皇の奉斎した伊邪那岐命・伊邪那美命を祭って謝し給はれた。
 この地は木花之佐久夜姫がいた地であり、卑弥呼は7才まで東郷池辺り(湯梨浜町宮内)にいたのでこの地のことはよく知っていた。卑弥呼が東征で木花之佐久夜姫の火中出産のことを話したので浅間神社で木花之佐久夜姫が祀られるようになった。
 全国の神社を掌握していた藤原氏は「斯くて数十年を経て景行天皇の御宇」を挿入改ざんしている。日本武尊が第9代開化天皇(第7代孝霊天皇の皇子)である。この時はまだ倭建命は皇子であり孝元天皇(卑弥呼の兄)は小田に居たから卑弥呼とともに会いに行ったはずである。西国、三韓、出雲を巡行しての帰りと思われる。
この時、中国に行くために、任那(全羅南道)のもとを創った。

2  古事記には「ヤマトタケル命は小碓命であり双子(史実は同年生まれの異母兄弟と思われる)の兄大碓命を残虐な殺し方で殺した」とある。一方日本書紀は「大碓命は事件発覚後、美濃に流され毒蛇にかまれて死んだ」ことになっている。
 原古事記には「大碓命は美濃に行かされたが小碓命(倭健命=第9代開化天皇)が188年に亡くなってから、天皇として即位した」と書いてあったはずである。大碓命のモデルは第10代崇神天皇である。
 なぜこういう推論に到ったのかというと、日本書記は古事記を参考に書かれている。しかし、小碓命=倭建命を景行天皇の皇子とした関係で大碓命は美濃で死んだことにする必要があった。12代の皇子(大碓命)が10代天皇にはならないので。大碓命は美濃の神社では毒蛇にかまれて死んだことにした。
 藤原氏は自分たちの都合で歴史上の重要な人物を死んだことにしている。たとえば、大国主、猿田彦、稲飯命、倭迹迹日百襲媛命、稚日女命などである。
 異母兄弟の弟が天皇になって若くして亡くなり、異母兄弟の兄が生きていて弟より少し勇気がないくらいなら次の天皇は兄にするであろう。倭建命は兄よりも勇敢であったため卑弥呼とともに、全国を巡行して青銅器文化の一族を平定した。死ぬ数年前に開化天皇として即位したが、亡くなってからは、異母兄弟の兄の大碓命が第10代崇神天皇として即位した。どちらも、卑弥呼の弟である。古事記にはこう書いてあったはずである。
 大碓命と小碓命は、孝霊天皇が黒田庵戸宮を去る以前に黒田庵戸宮で異母兄弟として生まれていた。孝霊天皇一族は伯耆国から天之日矛一族のいた但馬に疎開し、倭迹迹日百襲媛命は讃岐に行き、10年後、伯耆国奪還のため青銅器文化の一族(出雲神族)を平定した。大碓命、小碓命の生年は157年頃だと思われる。大碓命(崇神天皇)の崩御年は258年である。大碓命は弟の分まで長生きした(100歳)。第8代の孝元天皇も孝霊天皇の若いときの子供と思われる。生年は149年頃であろうか。182年頃には亡くなった。孝霊天皇が戦乱で戦っていた間の留守番天皇と思われる。孝霊天皇は170年頃退位したから、孝元天皇の即位は170年頃である。開化天皇の在位は182年~188年と思われる。

3  古事記には倭の大乱の一部始終が書かれていたはずである。それを消し去って、倭姫命世紀にしたり、神功皇后と武内宿祢が新羅を平定する物語に変え、残った部分も倭建命が一人で全国を巡行したように改ざんした。実際は、倭建命と卑弥呼が全国を巡行したのである。のちに孝元天皇が亡くなってから、数年間、倭建命は天皇(188年まで開化天皇、173年に卑弥呼と新羅に行っている)であった。卑弥呼は叔母ではなく姉であった。
 倭建命と卑弥呼の全国巡行(稚日女命が祀られているところはほぼすべて)にも関わらず、青銅器文化(銅鐸・銅剣銅矛・生贄の風習)を持った一族を完全に制圧することはできなかったため、第10代崇神天皇(188年即位)の時に将軍を派遣した。

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