倭建命は第9代開化天皇であった

1 11代天皇と12代天皇の問題となる系譜
⑴ 垂仁天皇(本拠地は岡山県美咲町大宮神社)
皇后(後):日葉酢媛命(丹波道主王の女)
大足彦忍代別尊(景行天皇)
倭姫命(史実は孝霊天皇皇女であった)
妃:迦具夜比売(かぐやひめ)。 - 開化天皇の曾孫(ひまご)。(史実は景行天皇の妃)
⑵ 景行天皇(屋主忍男武雄心命)皇居は奈良の纒向日代宮
皇后(前):播磨稲日大郎姫 - 若建吉備津日子女 この位置は津山市にいた影姫であった
大碓命 - 身毛津君(牟宜都国造)等祖
小碓命(倭建命=若日子建吉備津日子) この位置は武内宿禰であった
妃:迦具漏比売(かぐろひめ)。 - 倭建命の曾孫(ひまご)。
大江王(彦人大兄)
⑶ 私見
 古事記では「倭建命(小碓命)の曾孫(ひまご)の迦具漏比売(かぐろひめ)が景行天皇の妃となって大江王(彦人大兄)をもうける」とするなど矛盾があり、このことから景行天皇と倭建命との親子関係に否定的な説がある。
 景行天皇は106歳まで生きたのだから皇子のひ孫を「妃」と出来るかもしれない、という説があるが、不可能である。
 垂仁天皇の系譜に「迦具夜比売(かぐやひめ)は開花天皇の曾孫(ひまご)」とある。開花天皇は垂仁天皇の2代前なので、迦具夜比売は開花天皇の孫ならおかしくない。開花天皇の曾孫(ひまご)であれば迦具夜比売は景行天皇の妃がふさわしい。
 迦具夜比売と迦具漏比売は姉妹であり二人とも景行天皇の妃であったと思われる。原古事記には「開花天皇(倭建命)の曾孫(ひまご)の迦具夜比売(姉)と迦具漏比売(妹)は景行天皇の妃となって・・・」とあった。倭建命と開花天皇は同一人物であった。
 「常陸国風土記」では倭武天皇、「阿波国風土記」逸文では倭健天皇と書く。名古屋の氷上姉子神社の末社・元社の宮簀媛命宅跡の石碑にも「倭武天皇妃の宮簀媛命」とある。倭建命は天皇になっていた。倭建命(倭武天皇)と開花天皇は同一人物であった。

2 倭建命は吉備国を平定して蒜山から関金町に降りてきている(倉吉市関金町の伝承より)ので、若日子建吉備津日子命と同一人物と思われる。若日子建吉備津日子命は吉備国平定の功績により開化天皇になったと思われる。同じく大吉備津日子命も吉備国平定の功績により崇神天皇になった。第9代開化天皇は若日子建吉備津日子命(小碓命)であり、第10代崇神天皇は大吉備津日子命(大碓命)であった。母親が姉妹の異母兄弟であった。
 開化天皇は景行天皇の祖父の崇神天皇と兄弟であったが景行天皇の3代前の天皇となる。倭建命は欠史8代とされ旧辞が消された第9代開化天皇である。どちらも157年生まれの孝霊天皇の皇子と思われる。第8代孝元天皇の弟である。倭建命(若日子建吉備津日子命)は孝元天皇が亡くなってから5年くらいの間第9代開化天皇であった。30歳(188年)で亡くなった。倭建命が活躍したのは景行天皇の時代ではない。記紀の旧辞を読んでもわかるが、倭建命が生きた時代は倭国大乱の時代(147年~189年)である。倭姫命は伊勢神宮の正統性を創るために豊鋤入姫命の一代あとの景行天皇の妹としなければならなかった。倭姫命(倭迹迹日百襲姫命)と同時代に生きていた倭建命(若日子建吉備津日子命)も景行天皇の皇子とした。

3 卑弥呼と倭建命は新羅から中国へ行くルートを開くため三韓に行っている(173年)。全羅南道の任那はこの時に初めて設置された。三韓に行った後、祖父の孝安天皇が居た葦原中津国にも立ち寄り神助を謝している(宮崎神社の由緒)。
 宮崎神社の由緒には「征西の御時」とあるので倭建命が北栄町島に帰還したのは倭国乱の時代(147年~189年)である。
 鳥取県倉吉市関金町にも倭建命の伝承が残る。「この矢のとどく限り兇徒、悪魔は退散して我が守護の地となれ」と言ったのだから、倭建命は倭国乱の時代(147年~189年)に生きた。卑弥呼の前期は倭建命と一緒に行動している。

4 各天皇の生年と没年
※ 第7代孝霊天皇 120年~211年 卑弥呼の兄の孝元天皇(生年149年頃)を29歳の時に出生したとすると、120年生まれとなる。倭国乱が終結し、天孫族の大陸へ行くルートを確保したため安心して、広島の南宮神社あたりに隠居した。
※ 第8代孝元天皇  149年~182年  孝霊天皇不在中の臨時天皇
※ 卑弥呼 151年~248年 倭国の乱は早くとも147年からであるから、7歳の時158年頃に初期の乱に遭い逃げたと思われる。
※ 第9代開化天皇(倭建命) 157年~188年  倭建命と崇神天皇は異母兄弟。 享年30歳
※ 第10代崇神天皇 157年~258年 

5 開化天皇の皇居は鳥取県北栄町瀬戸の観音寺と思われる。

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北栄町島の宮崎神社の由緒に「倭建命は伊邪那岐・伊邪那美に神助を謝せられた」とある。御艦は瀬戸に泊めていたと思われる。開化天皇は皇子の時から瀬戸は知っていた。皇居をどこにするか聞かれて知っている瀬戸を選択したと思われる。瀬戸の観音寺から北栄町島が見える。

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瀬戸の観音寺に行くのに必ず道に迷う。迷わずにたどり着いたことがない。通り過ぎて行き止まりになったり、今度は大丈夫と思ってもいつのまにか遠ざかっていたりする。倭建命は準王一族(出雲族)と敵対していたから、容易に皇居に辿りつけないように迷路のような道路を造っていた。

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南を見れば大山・烏ヶ山・蒜山が見えるが、晴れた日は青く見える。当時は杉林はなかったと思われる。倭建命はこの青い山並みを歌に詠み「やまとは国のまほろば青垣山ごもれるやまとしうるわし」とうたった。


6 古墳

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 倭建命であり第7代孝霊天皇の皇子である。東国を従えるため、尾張に一大率として居たため皇居の比定は難しいが、古墳は湯梨浜町宮内の狐塚古墳のはずである。築造は五世紀始めとするが、形状が鳥羽市安楽島の卑弥呼の松の鼻古墳と同じように前方部が水側に向いており、卑弥呼の200mの半分の100mであり、後世生まれたところに築造したと思われる。1歳くらいの時にコブハクチョウにエサをやったはずである。

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瀬戸35号・36号墳の埋葬者は倭建命の子孫と思われる。35号墳は一人用の石棺に夫婦二人が埋葬されていた。頭骨はベンガラで朱色に塗られていた。奈良の藤ノ木古墳も同棺複数埋葬墓であった。奈良の法隆寺は由良(22)に皇居のあった聖徳太子(蘇我入鹿天皇)が建立した。

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