葦原中津国の中心(室秋津島)に行ってきました

1 鳥取県北栄町大島(室秋津島)
東の灘手の数本の指(尾根)の重なりを見て神武天皇は「秋津がトナメしているようだ」と言ったのでこの地を秋津島と名付けた。
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 大島(旧島)の全体像。伊邪那岐は辰韓から船で来た三貴神をこの地で迎えた。第六代孝安天皇(第八代孝元天皇の祖父)がいた。当時、周辺は海であった。陸地になってからは、全面穀倉地帯になっています。白い建物はライスセンター・カントリーエレベーター。
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 家並みの奥の丘を取り巻くように家が建っている。

2 宮崎神社(昭和9年鳥取県神社誌より)
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由緒(抜粋)
 「創立及び沿革等の古書類は渾て文化年度の火災に焼失せしにより、詳らかならざれども、古老の口碑略にいう。
 本村土地の姿たる往古は入海にて、今に当村の北に瀬戸という村名また艮の方に原灘という地名、巽に穂波という村名、南に大船頭鼻という地名、坤に高鼻及び津原の村名、西に汐ノ宮等の名称を存せり。
 舟筏無くば他村に渡渉し難き所にして、潮水満る時は民家将に沈没せしむとし、土人頗るこれに◯難す。
 是に於て孝霊天皇の御宇皇子大日本根子彦国牽尊、土人の為今の本社地に御祖伊邪那岐命・伊邪那美命を奉齋し給ひき。是れ本社の濫觴なりと。斯くて数十年を経て景行天皇の御宇、皇子日本武尊征西の御時、北海の霪風御艦を悩まし奉りしが不思議の神助にて御艦引寄するが如く本社地乾の隅に着御し給へり。尊大に歓喜し給ひて宣はく 斯く清らかなる地の海面に浮出つるはこは浮洲にや と。是より社地を称して浮洲の社と云ふ。洲の中央に大麻を挿立て御自ら御飯を爨き給ひて二尊を祭り神助を謝し給へり。御飯を炊き給ひし地は本社の北にあり今飯ノ山といふ。斯くて其後風波穏やかになりければ如何なる御訳にや。小艇は此地に◯置き給ひて、御艦に召され進発し給ひしと云ふ。・・・又御難風の御時尊の御沓一隻海に失い給いしが後潮引ける時本社より西方なる山岸によれり。土人この沓を奉して祀れり。是今の汐宮なりという。・・・。」とある。
※ 私見
 由緒は後天八卦方位を使っている。
 八卦は、道教の中心思想で、宇宙の根本の力を表わす。
  中国では道教八卦と言う言葉があるくらい道教と八卦は繋がっている。
 この地には道教思想が根付いており、その始祖は道教の方士徐福(天照大御神)であった。
 大日本根子彦国牽尊(第8代孝元天皇)は実在した天皇であり、鳥取県北栄町大島で御祖伊邪那岐命・伊邪那美命を奉齋した。

3 大島(室秋津島)の中心にて
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 島の一番高いところである。向こうに火火出見命が宮を定め神武天皇四兄弟がいた四王寺山が見える。
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 島の一番高いところである。向こうに火火出見命が宮を定め神武天皇四兄弟がいた四王寺山が見える。
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 島の一番高いところである。洲の中心であり、第八代孝元天皇が伊邪那岐命・伊邪那美命を奉齋し、倭建命が洲の中央に大麻を挿立て御自ら御飯を爨いて伊邪那岐命・伊邪那美命を祭り神助を謝したところである。
 第八代孝元天皇が伊邪那岐命・伊邪那美命を奉齋したのは、土人のためではなく大乱を戦っている父の孝霊天皇や妹の卑弥呼や弟の倭建命の戦勝を祈願したからである。
 倭建命が着御し、尊大に歓喜したのは三韓征伐と征西が成功裏に終わったからである。昭和九年の鳥取県神社誌には「征西の御時」とある。

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