天照大御神が譲れといった葦原中津国は鳥取県北栄町にあった


1  宮崎県高千穂町の天照大御神像

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上は宮崎県高千穂町天岩戸神社前にある天照大御神像。下は徐福像。

 集団のリーダーは徐福がふさわしい。徐福は平原(伊勢野)広沢(葦原中津国)を得て始皇帝に言われたとおり王(天照王)となった。

 「古代史に徐福を出すのはとんでも説である」という方がおられるが、その方は日本書紀の泥沼にどっぷりつかっている人である。「これほど古代史で苦しんでいるのに、徐福なんて安易な説に頼るな」と言いたいのである。「大を王と解釈するな」という方も同じである。どちらも藤原氏のお膝元の京都の方であった。


2 宮崎県高千穂町のくしふる神社と高千穂神社

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 くしふる神社の由来

くしふる神社の鎮座するくしふるの峰は肇国の昔天孫瓊々杵尊が三種の神器を奉載してこの国を治める為に天降られた聖地として古史に記されています。

 往昔は社殿はなく山そのものを神と崇めて高千穂八十八社の一つに数えていましたが十社大宮司をはじめ往古の聖跡を慕う歴代延岡藩主の熱望と高千穂十八郷の民力とにより元禄七年(1694年)6月15日に社殿が建立されました。

古来武神としての信仰が厚く、またわが国の神道流布根源の地として広く信仰され高天原四皇子峯とともに高千穂を代表する聖地であります。

 御祭神

天児屋根 経津主命 天津彦火瓊々杵尊 天太玉命 武甕槌命

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 高千穂宮御由緒

当宮は初め高智保皇神と申しあげて、この地に宮居をさだめられた天孫瓊々杵尊、木花開耶姫以下三代の神々をお祀りし、千百余年前の仁明、清和両朝には日向国最高の御神階が授けられたことが六国史に記されております。

神武天皇の皇兄三毛入野命が御東征の途次高千穂に帰られて日向御三代をおまつりされたのが初めてで、その子孫が長く奉仕されて後には三毛入野命御夫婦と八柱の御子とを合祀して十社大明神の神名で親しまれ古くより高千穂郷八十八社の総社として崇められてきました。

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天孫降臨、神武天皇ゆかりの高千穂宮は、今日では国運の隆昌と、縁結び、交通安全、厄除けの神さまとして広く信仰されております。

※ 私見
 徳川光圀は霊元天皇に「紀伝」を献上した。ところが、これを全面的に書き直すようにという命令が出た(1682年)。クシフル神社は光圀の「紀伝」を見た京都の藤原氏が辻褄合わせのために創建したものである(1694年)。
 高千穂宮では生贄が行われる。生贄をするのは準王一族(鬼八)であり、天孫族(瓊々杵命など)には生贄の風習はない。高千穂宮は天孫族の神社ではなく、天孫族に敵対していた準王一族の神社である。


3  鳥取県北栄町のクシフルタケ

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 クシフルタケとは百済読みであり、奈良時代までは新羅読みでクシフルネ(波波伎神社の由緒より)と言っていた。アイヌ語に直すと「川などの向こうの岡」という意味である。

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 津原より亀谷丘陵を写す。白いガードレールに沿って由良川が流れており、亀谷丘陵は「川の向こうの岡」になる。


4  天孫瓊々杵尊を祀る下種の大宮神社

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 藤原氏が支配する神社庁に抹殺された大宮神社。周辺は畑だが弥生時代の住居跡が多く発掘されている。

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祭神 大国主 別雷命(阿遅鋤高日子根神) 瓊々杵命 素戔嗚命 猿田彦命 菅原道真

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狛犬のすり減り方より、かなり古い神社であることが推測される。

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道教の橋のようにクランクになっている。

※ 上種第1遺跡発掘調査報告書より

弥生時代後期から古墳時代中期にかけての住居跡46棟が発掘された。木花之佐久夜毘女の産屋があった高江神社の周辺からも弥生時代後期の住居跡が発掘されているので、全国に神道祭祀の布教を始めた崇神天皇(在位188年~220年)が人々が崇敬すべき特別な場所(天孫降臨の地)として神社と祭祀をする者たちの建物を周りに建てたと思われる。

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弥生時代後期から古墳時代中期にかけての住居跡46棟が発掘された。

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 大宮神社を取り巻くように建てられていたことが判る。発掘調査に携わった担当者は「さすがに神社を掘り返すことはできなかった」と言う。

 神社を発掘すると、大国主の言った「天つ神の御子(瓊々杵命)が天つ日継知らしめす壮大な天の宮殿」跡が見つかるはずである。


5  木花之佐久夜比売命を祀る亀谷神社

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祭神 木花之佐久夜比売命 品陀和気命 大国主命 事代主命

由緒 当社は往古より四所に鎮まり、各社とも創立年代詳ならざれども木花之佐久夜比売命は氏宮大明神と崇敬し現今の社地に鎮座す(鳥取県神社誌より)。


6  天児屋根命を祀る合併前の穂波神社と合併後の宮崎神社

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穂波集落の横の丘陵地に位置する。

大正5年5月14日大誠村大字穂波字塚林西鎮座村社、穂波神社、祭神天児屋根命を合併す(鳥取県神社誌より)。

穂波神社を合併した宮崎神社

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 倭建命は征西中、伊万里から三韓に行き中国に朝貢するルートを確保するために全羅南道に任那を設置した。新羅→日御碕→片江経由で北栄町大島(鳥取県中部)に帰ってきて二尊に神助を謝した(宮崎神社由緒より)。ヤマト王権も、伊万里から出港し三韓を平定しての帰りで、御艦には卑弥呼も乗っていた。紀元173年頃であり、倭健命は16歳、卑弥呼は22歳であった。


7  縄文海退で瀬戸、原を入江の入口として西穂波、亀谷、灘手地区(津原、鋤、別所、尾原、穴沢)、穂波、原の海抜4mの線を結ぶと、天然の良港があったことがわかる。津である。縄文海退がすすみ、周辺は葦原になっていた。


8  亀谷神社には木花之佐久夜比売命が住み、同じ丘陵のもう少し山側(下種の大宮神社)には天孫瓊々杵命が御所を建てた。天孫はこの地域(葦原中津国)を目標に降りてきて、この地域(葦原中津国)を平定した。穂波には一番の家来の天児屋根命がいた。

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