鳥取県は東アジアからの移民を受け入れる玄関口であった。列島の王もここに居た。

 鳥取県は東アジアからの移民を受け入れる玄関口であった。列島の王もここに居た。

 邇邇芸命の「この地は 韓国に向きて、笠沙の御前を真来通りて  朝日の直刺す国 夕日の日照る国なり」について

1 「韓国に向きて」とは
 「韓国」とは朝鮮半島にある韓国(新羅)のことである。
 韓国(新羅)から人力船で出港すると海流(リマン海流と対馬海流)に流されて鳥取県に到着する。渡来人は葦原中津国(橘)や、東郷池(難波津)や、青谷(上寺地遺跡)や、湖山池や但馬にも到着していた。鳥取県は海流(リマン海流と対馬海流)の流れによって韓国に向いていた。
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 伊邪那岐(大神)は人口を増やしたかったので徐福(天照大神)に多くの少年少女を連れてくるように言った。天照大神や素戔嗚やその子の大国主も祖神(伊邪那岐)の遺志を受け継ぎ、列島の人口を増やすことを考えていた。天武天皇の頃まで倭朝廷は祖神(伊邪那岐)を祀っていたので、列島の人口を増やすことが第一であった。天照大神(徐福)の時から列島の国造りをするために水田稲作を広めて、常世の国(ベトナムや雲南や広州や長江流域)より、先進技術を持った人々を列島に入植させていたが、多くは朝鮮半島(韓国)経由で鳥取県に渡来していた。したがって、邇邇芸命が降臨したときには祖神(伊邪那岐)の遺志を受け継いだ天孫族の事業(人口を増やすこと)にとって韓国(新羅)は非常に大事な国であった。
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 葦原中津国(橘)にも、韓国(辰韓)からの船がひんぱんに来港していた。大国主のあと邇邇芸命も父の天忍穂耳(大物主)を手伝って国造りをしていた。

2 国立科学博物館の世界各地の古代人のDNA分析の第一人者である篠田謙一副館長は青谷上寺地遺跡から出土した32体の人骨のDNA分析をした。
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 篠田氏は「国際都市の場合、こういう出方をする」と言った。青谷上寺地遺跡のそのほかの遺物より、韓半島(新羅)から直接青谷に渡来していることが判った。慶州の古墳は円墳であり、鳥取県中部の古墳も円墳である。
 青谷で亡くなった32名の出身地は東アジアの広範な地域から韓国(新羅)を出港し海流に乗って鳥取県の青谷に上陸したことが解かった。縄文人のDNAが多少混ざっているのは、渡来してから数代経っているからである。
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 青谷は国際都市であった。

3 「笠沙之御前を真来(巻き)通りて」について
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 韓国(辰韓)からの船がひんぱんに来港していたから、主語は韓国(辰韓)からの船である。

4 鳥取県中部は国際都市であり、都であった。
 青谷の手前にある東郷池(師木津=柏)や葦原中津国(御真津=橘)にも東アジアの広範な地域から多くの渡来人が訪れていたことは容易に察しがつく。
 「義楚六帖」・「一切経」・「大正新脩大蔵経」などに記載されている「倭国在東海中」とは「倭国は日本海沿岸にある」ことを意味している。新羅の慶州の古墳は円墳であり鳥取県中部の古墳も97%(全体で2395基)は円墳である。青谷上寺地遺跡の殺傷痕のある多数の人骨は倭国大乱の痕跡であった。倭国とは笠沙之御前(北条砂丘)や葦原中津国(橘)のあった鳥取県中部(青谷も含む)のことであった。
 弓月君の民も韓国(辰韓)経由で鳥取県中部に渡来し上陸していた。弓月君の民の渡来ルートは百済から北部九州ではない。百済から出港した場合、新羅は止めることができない。新羅から出港して鳥取県中部のルートなら新羅に行くまでに百済は止めることができる。藤原氏はここでも原古事記にあった新羅と百済を入れ替えている。応神天皇(葛城襲津彦)の皇居は笠沙之御前の手前の以前は島であった軽島之明宮(倉吉市穴窪)にあった。

5 渡来人はなぜ九州上陸を避けたのであろうか。
 納豆の起源は中国雲南省という説がある。少彦名も雲南省あたりから渡来して国造りを手伝っていた。神祇志料(明治6年)に「・・・大己貴命、少名毘古那命、須勢理姫命、伯耆国大神山に御座して・・・」とある。また、出雲風土記では「伯耆国大神岳」とする。大神山(岳)は私見では北栄町の茶臼山(久米郡大神郷の山)であるが、少彦名は鳥取県中西部(伯耆国)に住んでいた。少彦名は北栄町の茶臼山から常世国に帰った。常世国とは揚子江上流の雲南省あたりであった。
 「神武の兄の御毛沼命は常世国に行った」と古事記にあるが、何のために常世国(雲南省)に行ったのだろうか。それは、それまで九州に上陸する渡来ルートを変更させるためであったと思われる。
 人口を減らす一族(蝦夷・鬼八)が九州にいた(吉野ヶ里遺跡はその中心地であった)ので、蝦夷・鬼八を平定するために神武4兄弟は九州に向かい、九州の蝦夷・鬼八を平定した。九州の福岡県・佐賀県・鹿児島県で出土した紀元前100年頃の鉄鏃は神武4兄弟が放った鉄鏃と思われる。
 神武の兄の御毛沼命は常世国まで行き、渡来ルートを変更させた。それ以来、渡来人は半島の新羅を経由して日本海(東海)沿岸に渡来するようになった。

6 以下を記述したときは、NASAから資料提供をうけたドイツの「洪水マップ」の存在を知らず、勘に頼っていた。「洪水マップ」を使うと、海抜4mで笠沙之御前(北条砂丘)が現れる。
 北栄町大島を中心とする葦原中津国の前は北条砂丘(鳥取砂丘の次に広い砂丘)が広がっており、東園・西園集落に海抜10m~20m位の長い砂丘地があり、当時はこの砂丘地が笠形であった(今は造成されて、あちこち崩されている)。東園・西園集落は葦原中津国の入口(橘の小門=瀬戸集落と原集落の間)を出た真北にあり笠沙之御前(北条砂丘)の西側に位置する。
 東園・西園集落の東にある松神集落(松神神社の祭神は木花咲耶姫)で木花咲耶姫は瓊々杵命(下神集落の三輪山に来ていた日向御子)に求婚された。
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 東園の砂丘地。ここで海抜15mくらい。
「笠沙之御前を真来(巻き)通りて」とは、海と葦原中津国の湾とをつなぐ入口が東園・西園集落の高い砂丘地(笠沙之御前)を回らねば、船で入って来れなかった。そのような位置に東園・西園集落の高い砂丘地(笠沙之御前)は今でもなっている。「韓国からの船が笠沙之御前を真来(巻き)通りて入ってきた」ということである。
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 西園の砂丘地。ここで海抜20mくらい。






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