今までのまとめ


今までのまとめ

 結論だけを書きますので、理由はそれぞれのカテゴリをご覧ください。

1 第1次の徐福(紀元前219年)は米子市陰田町に到着し東南の大山(蓬莱山)に連れていかれ大神(伊邪那岐)の宮殿や銅色の龍形の使者がいて光が天を照らしている(光上照天)のを見た。大神(伊邪那岐)は「名声ある男子と童女とさまざまな分野の技術者を献上せよ」と言った(史記より)。
 大神(伊邪那岐)は徐福(天照大神)一族を住まわす葦原中津国(鳥取県北栄町大島周辺)を造るため、蒜山高原より倉吉市の新宮神社に降臨していた。伊邪那岐が伊邪那美から逃げて葦原中津国にたどり着くまでの黄泉(黄泉→津)比良坂は黄泉国(鳥取県倉吉市不入岡)から葦原中津国(鳥取県北栄町原)までの鳥取県道23号線であった。伊邪那岐(大神)が禊をした原は北栄町原であった。
 天照大神と素戔嗚は鳥取県大山町御崎の日御碕神社を出港して伊邪那岐が待っていた北栄町の大島と原(葦原中津国)に到着した。伊邪那岐は三貴神(天照大神・素戔嗚・月読命)を葦原中津国に迎え、彼らが治めるべき国を命じた。また、​​一族をここ(葦原中津国)で育てるよう指示した。​​天照大神は高天原に上がった。高天原は蒜山高原(5神社すべての祭神になっている)であった。​​​​蒜山高原には伊邪那岐・三貴神以前(旧石器・縄文時代)の神々もいた。​
 ​徐福一行は辰韓(新羅)にしばらくとどまったのち次々と伯州(伯耆国)に渡った。徐福本隊は鳥取県の大山(蓬莱山)を見ながら海を東に進み、大山の裾野の小さな湾に到着した(紀元前210年)。徐福は北栄町の大島と原(徐福文書にある宇記島・原)に上陸し、蒜山高原(史記にある瀛州)に上がり仙薬を探した。徐福も天照大神も来倭コースは同じである。どちらも、鳥取県北栄町大島と原に上陸している。
 紀元前194年頃、準王一族(出雲族)が鳥取県中部を占拠したので、徐福は蒜山高原(瀛州)から降臨し、平原(琴浦町の伊勢野・鈴鹿野・斉王野・方見邑)と広沢(北栄町大島周辺)を得て王となった。
 天照大神は江戸時代まで男性であった。天照大神は道教の方士徐福である。​徐福は最初に見た「光が天を照らす」情景に因んで自ら「天照大神」と名乗った(史記より)。月読命は保食神であり女性である。
 神社神道のルーツは同じく鏡を祀る道教にあるが、始祖の天照大神が道教の方士であったからである。
2 素戔嗚は葦原中津国(倉吉市谷)で泣いてから蒜山高原(高天原)に上がり、天照大神と淀江町高井谷の天真名井でうけいをした。その後、海原(倉吉市中心市街地)の近くの三朝町山田(ヤマタ)にいた八岐大蛇を退治した。八岐大蛇は第一次の徐福一行(紀元前219年)を追ってきた始皇帝の家来たちであった。素戔嗚は稲田姫とその両親と三朝町助谷経由(助谷ぼうき)で蒜山に上がり、天叢雲剣を天照大神に渡してから、天穂日とともに、鳥取県智頭町(木国)の那岐山に遷っていた伊邪那岐を追って、稲田姫と鳥取県八頭町大江郷に住み、大国主を生んだ。天照大神も河原町の霊石山と氷ノ山に行ってみた。
 殷王朝末裔の箕氏朝鮮の準王一族(因幡の白兎伝説における大国主の兄の八十神)は徐福たちに16年遅れて出雲国、伯耆国、因幡国に到着した。琴浦町の方見郷(建御名方)・北栄町の葦原中津国(事代主)にも住んだ。
 伊邪那岐が亡くなってから、素戔嗚は倉吉市(根国)の清熊稲荷神社の峰(哮峰)に須勢理姫(宇迦之御魂神)と住んだ。大国主が冒険した根国(黄泉国)は鳥取県倉吉市であった。大国主は須勢理姫を背負って黄泉比良坂の麓(不入岡)から宇迦能山(北栄町茶臼山=伊那佐山=大神山)に逃げた。素戔嗚(天津御祖神)は十種神宝(須勢理姫が大国主に使った比礼を含む)を饒速日に与えて東山神社に移り、大蛇を斬った剣を天神川の対岸の大原神社に奉納した。倉吉市大原を石上といい、石上神宮は倉吉市大原の大原神社であった。

3 素戔嗚の子の大国主が完成させた葦原中津国は鳥取県北栄町にあった。そこに大年神や兄の八十神(準王一族=出雲神族)と一緒に多くの妻子を住まわせていた。大国主(八島士奴美神)は須勢理姫(宇迦之御魂神)と一緒に北栄町の茶臼山(伊那佐山=宇迦能山=大神山)に住み、茶臼山の松樹庵を本拠地として少彦名(雲南省出身)とともに、全国の国造りをしていた。
 伊邪那岐や大国主のいう国造りとは、人口を増やすことであり、そのための育児・食育の環境を整えることであった。
 「天の安河の河原」は蒜山高原の西隣の鳥取県江府町下蚊屋明神の地である。思金神は江府町貝田神社から来た。天照大神など八百万神は蒜山高原から来た。鳥取県八頭郡で素戔嗚の子の大国主を生まれた時から守っていた天穂日を大国主のもとに行かせることにした。
 饒速日命・天照大神・月読命(保食神)・5伴緒・思金神など大勢は鳥取県江府町下蚊屋で合流し、猿田彦の待っていた江府町鏡ヶ成より野添経由で倉吉市関金町の神田神社に到着した。
 饒速日は船で日吉神社から小鴨川を下り、倉吉市(根国)の清熊稲荷神社の峰(哮峰)に降臨した。哮峰で天津御祖神(素戔嗚)から十種神宝(比礼を含む)を授かった。
 天忍穂耳は関金町耳から船で(櫛玉)饒速日と一緒に哮峰に到着した。哮峰にいた素戔嗚は少彦名の居なくなった大国主に協力してくれるよう天忍穂耳に頼んだ。天忍穂耳は哮峰から猿田彦と一緒に船で茶臼山の東の海に行き大国主に会った。天忍穂耳(大物主)の本拠地は大国主のいた茶臼山の西の北栄町下神(しもつみわ)の三輪山(神山)であった。猿田彦の本拠地は隣の北栄町松神であった。大物主(櫛甕玉)とは(櫛玉)饒速日の父の天忍穂耳であった。少彦名のいなくなった大国主と協力して全国の国造りをした。

4 天孫族の使いが国譲りの交渉にやってきた伊那佐小浜は鳥取県北栄町の茶臼山(伊那佐山=宇迦能山=大神山)にあった。
 素戔嗚の子の大国主が建ててもらった高い宮殿のあった多芸志小浜は鳥取県湯梨浜町長瀬高浜にあった。笠沙之御前(北条砂丘)の中央と東端である。
 饒速日は倉吉市寺谷にいた天若比古に使いを遣り、倉吉市の夏谷(鳥見の白庭山のちに天の香久山)に降臨し定住した。
 天照大神・月読命(保食神)一行は神田神社から伊勢野の天照皇大神宮(鳥取県琴浦町斉尾)と外宮の月下の宮(鳥取県琴浦町槻下)に降臨した。建御名方は琴浦町の方見郷(加勢蛇川周辺)に居た。
 饒速日は天穂日の縁結びで出雲族(準王一族)の王(のちに大国主と名乗る)である長髄彦の妹を娶った。長髄彦も中洲と倉吉市夏谷(鳥見の白庭山)と倉吉市富海(鳥見邑)に住んだ。
 饒速日が亡くなったので、四歳の瓊々杵命は猿田彦の道案内で、蒜山の加茂神社、関金町の矢送神社、高城の楯縫神社を経由して北栄町上種の大宮神社(日向)に降臨し、葦原中津国を平定した。
 葦原中津国に住んでいた事代主と百八十神(出雲族)は、倉吉市福庭を経由して湯梨浜町長和田(湖の畔)に移りそこで余生をおくった。
 「笠沙之御前」は鳥取県の北条砂丘であり、「葦原中津国」は鳥取県北栄町大島を中心にした地域であった。
 ​瓊々杵命と同時に豊受姫(倉稲魂命)は月下の宮(鳥取県琴浦町槻下)に降臨した。
 猿田彦一族は蜘ヶ家山(鳥取県北栄町)に住んでいた縄文人であった。​
​ 瓊々杵命と木花之佐久夜毘売(豊玉姫)の子の火火出見命(鵜草葺不合)は辰韓に行き玉依姫と知り合った。火火出見命(鵜草葺不合)は倭国に帰り、倉吉市大谷の四王寺山(日向)に宮を定めた。火火出見命(鵜草葺不合)と玉依姫との間に神武四兄弟が生まれた。

5 神武四兄弟は倉吉市大谷の四王寺山(日向・畝傍山)で育った。神武四兄弟は九州平定のため、また二男と三男が大陸に渡るため、九州に行った。四兄弟の目的は準王一族(鬼・土蜘蛛・蝦夷)を平定することであった。宮崎県から奈良県に行く神武東征は藤原氏によって作り替えられた創作物語であった。
 九州平定後、五瀬と磐余彦は倭国(鳥取県中部)に帰ってきたが長髄彦の矢があたり、五瀬は鳥取県智頭町(木国)で亡くなった。磐余彦は広島県福山市まで退却し福山市を本拠地にして倭国(鳥取県中部)を取り戻す機会をうかがっていた。摂津国の東奈良遺跡に行き銅鐸絵画ではなく土器絵画にするよう指導した。しかし奈良までは行かなかった。
​ 磐余彦は岡山県の旭川沿いに蒜山高原(高天原)に上がり饒速日と同じ鏡ヶ成から野添経由で倉吉市高城地域(上大立)に下りて穿って道(下見関金線と円谷広瀬線)をつけ、留守の間に倭国(鳥取県中部)を占拠していた準王一族(出雲族)を平定し、初代天皇として紀元前60年に倉吉市大宮(橿原宮)で即位した。楯縫邑(倉吉市高城)と笠縫邑(琴浦町八橋)もその時に開いた。神武天皇は情報戦・ゲリラ戦を展開していた。
 三男の御毛沼命は常世国(中国雲南省)に渡り倭国への渡来コースを変更させた。
 二男の稲飯命は辰韓に行き紀元前57年に新羅を建国した。神武天皇はヤマト(倭)国の国号を「ソ(徐)ラミツ」とし、稲飯命は新羅国の国号を「ソ(徐)ナバル」とした。

6 欠史8代の天皇は鳥取県中部にいた。第2代綏靖天皇の皇居は北栄町蜘ヶ家山(葛城山)の岡神社。第3代安寧天皇の皇居は湯梨浜町橋津観音堂。第4代倭国大王懿徳天皇(在位40年~75年頃)は奈良を平定し、銅鐸祭祀の一族に線刻土器祭祀を始めさせた。また、初めての中国への朝貢を倭奴国(倭国に従う国)にさせた。奈良を平定したのは神武天皇ではなかった。皇居は倉吉市小田山。第5代孝昭天皇は倉吉市穴沢の灘手神社。第6代孝安天皇は北栄町大島(灘手が秋津のトナメに見える)。第7代孝霊天皇(在位145年~170年頃)は湯梨浜町宮内の倭文神社。第8代孝元天皇(卑弥呼・大吉備津彦・若日子武吉備津彦の兄)の皇居は倉吉市小田。第9代開化天皇(若日子武吉備津彦・倭建命)の皇居は北栄町瀬戸の観音寺。欠史8代の皇居は奈良の石碑だけとは異なり皇居を中心にした集落単位で想定できる。
​​​ 倭国王家は初代神武天皇から第10代崇神天皇が全国に神道の社を建てて統一するまで、準王一族(出雲神族)と対立していた。準王一族は生贄の風習を残す殷王朝末裔であり、かたや人命を大事にして人口を増やしたい倭国王家である。準王一族の祭祀を変えるまで相いれることはなかった。倭国歴史書を改ざんしたのも半島に残っていた準王一族(百済人=藤原氏)であった。同族が平定される様を残せなかったし、神武東征との整合性から2代から9代までの旧辞は消した。

7 倭国大乱の原因は孝霊天皇をめぐる出雲神族の姫たちの嫉妬であった。卑弥呼は第7代孝霊天皇の皇女・日女命又の名は倭迹迹日百襲姫命である。稚日女命と倭姫命は藤原氏に名前を変えられた卑弥呼であった。内藤湖南(倭姫説)と笠井新也(倭迹迹日百襲姫説)はどちらも正しかった。藤原氏の国史改ざんによって混乱が生じていた。卑弥呼の出身は鳥取県湯梨浜町宮内(黒田庵戸宮)である。
 魏志倭人伝に「倭の地ではその身体に朱丹を塗る」とあるが、鳥取県中部の古墳から出土した人骨42体(歯のみは省略)のうち11体(26%)は朱を塗った状態で亡くなっている。​魏志倭人伝に「倭人の俗は、儀式や行事を行い、何かを言ったり行ったりする時は、骨を灼いて卜し、以って吉凶を占う」とある。青谷上寺地遺跡で全国で一番多い240点の卜骨が出土した。倭姫命世紀にある「倭の笠縫邑」は鳥取県琴浦町の「八橋」であった。「倭の彌和の御室嶺の上の宮」は鳥取県北栄町下神(しもつみわ)の三輪神社であった。倭国は鳥取県中部であった。倭国大乱は鳥取県を中心にした出雲族の反乱であった。
​ 倭姫命(卑弥呼)と倭建命の皇軍は鳥取県の出雲族(鬼・土蜘蛛・河童・蝦夷)を平定して倭国大乱は終結した。その後、倭姫命(卑弥呼)と倭建命の皇軍はさらに、西は長崎県・朝鮮半島、東は岩手県までの広範囲を平定した。全国に神社を建てて銅鐸祭祀を銅鏡祭祀の神道に改宗させた。全国の代表者を集めての祭祀は鳥取県北栄町下神(しもつみわ)の神浅茅原でしていた。その時、開化天皇や崇神天皇は豊田市の猿投神社に、倭迹迹日百襲姫命は神戸市の旧生田神社にいた。​
​​​ しかし、鳥取県中部は東国から遠いため神道の祭祀は奈良の纒向ですることにした。しかし、奈良盆地には平定されたとはいえ敵対していた殷王朝末裔の準王一族(銅鐸祭祀の一族)が多く居たため、卑弥呼の安全な居所を探さなければならなかった。宇陀を出発し志摩国までめぐる「倭姫命世紀」は卑弥呼の安全な居所を探す巡行であった。卑弥呼(151年~248年)の居所は志摩国に定めた。魏志倭人伝に「南の邪馬壹国に至る。女王が都とするところ」とある。女王はそれまでの都(鳥取県中部)を離れて新たに邪馬壹国(志摩国)を都とした。邪馬台国は志摩国(志摩市・鳥羽市)であった。その時はまだ藤原氏の創った​​​邪馬台国(志摩国)を封印するための伊勢国・伊勢神宮(現在も大宮司は藤原氏の鷹司)はなかった。
 奈良盆地の集落の環濠を埋めさせたのは190年頃である。奈良の纒向で祭祀をするときは、吉野町宮滝経由で纒向に行き、帰りは和歌山の玉津島神社から船で何日もかけて伊射波神社まで帰った。卑弥呼の墓は鳥羽市安楽島町の松の鼻古墳である。
 台与は豊鋤入姫命であり第12代景行天皇(武雄心命)の妹である。景行天皇(武雄心命)の妹は倭姫命ではなく豊鋤入姫命であり、神功皇后のモデルであった。豊鋤入姫命は甥の武内宿禰と一緒に行動していた。豊鋤入姫命は都を鳥取県中部(倭)に戻し、倉吉市鋤集落を本拠地にした。

8 第10代崇神天皇(大吉備津彦、卑弥呼の弟・湯梨浜町長和田)と第11代垂仁天皇(湯梨浜町川上)は師木地方(鳥取県湯梨浜町)に皇居があったが出先(岡山県の木国=津山と久米=大宮)を中心に活動していた。第12代は景行天皇(武雄心命)(奈良県纒向)。第13代は武内宿禰大王(北栄町原)叔母の豊鋤入姫命と行動。第14代は仁徳天皇(13代の第4皇子・平群木菟宿禰・湯梨浜町松崎神社)。第15代は応神天皇(13代の第6皇子・葛城襲津彦・倉吉市穴窪と湯梨浜町小鹿谷)。第16代は履中天皇(15代の第1皇子・讃・北栄町米里)。第17代は反正天皇(15代の第3皇子・珍・皇居は鳥取県中部)。第18代は允恭天皇(15代の第4皇子・済・倉吉市下古川)。第19代は安康天皇(興・倉吉市大原)。第20代は雄略天皇(武・倉吉市長谷寺)。第21代は清寧天皇(北栄町米里)。第22代は仁賢天皇(倉吉市大原)。第23代は武烈天皇(倉吉市打吹山)。第24代は継体天皇(北栄町米里)。第25代は安閑天皇(三朝町大瀬)。第26代は蘇我稲目大王(湯梨浜町龍島と倉吉市大江神社)。第27代は蘇我馬子大王(北栄町北条島)。第28代は蘇我入鹿(善徳)大王(北栄町由良宿)。第29代は蘇我倉山田石川麻呂大王(湯梨浜町長江)。
 ​宣化・欽明・敏達・用明・崇峻・推古・舒明・皇極・孝徳・斉明・天智は倭国大王ではなく百済王であった。百済王の古墳は方墳・六角墳・八角墳であり、倭国王の古墳は円墳・前方後円墳であった。​​​
​ 第30代は天武天皇(倉吉市賀茂神社)。第31代は高市大王(キトラ古墳・皇居は鳥取県中部)。第32代は忍壁大王(高松塚古墳・皇居は鳥取県中部)。第33代は穂積大王(皇居は鳥取県中部)であった。第34代大王(皇居は倉吉市の北野神社)は安全のため鳥取県中部にいた。​​​菅原道真の出身地は倉吉市の北野であった。​

​9 葛城・軽・磯城(師木)・泊瀬(長谷)・宇陀・磐余邑・河内・難波・出雲大社・伊勢神宮・石上神宮・三輪神社は鳥取県中部(倭国)にあった。奈良県・大阪府南部・和歌山県も藤原氏の創ったテーマパークであった。
 642年から734年まで列島には倭王朝と亡命百済王朝(日本)が並立していた。舎人・新田部・藤原四兄弟は734年に倭(鳥取県中部)にいた大王(天皇)を殺害した。天照大神から続いてきた姓が天(アマ)の大王は734年で途絶えた。倭国と兄弟国であった新羅の刺客は舎人・新田部(735年)と遣新羅使(736年)と藤原四兄弟(737年)を殺害した。新羅には八百年の間兄弟国として助け合ってきた倭国大王(天皇)の仇討をする正当な理由があった。
​​​ 紀元前60年の神武天皇の即位から734年(長屋親王の変は729年)まで約八百年の間、列島は倭(鳥取県中部)に従属していた。​



​ これほど何もあったのに、まるで催眠術にかかったように「鳥取県には何もない」という言葉が鳥取県民から出てくる。この状態こそ藤原道長が思い描いていた望月の欠けることのない状態である。そのためにすべての証拠を消し去っていった。証拠となる人間も引きずり出して公開処刑し「鳥取県には何もない」という言葉を植え付けた。奈良時代から京都(平安)時代に宮崎県・島根県・奈良県・三重県・和歌山県に大きくて立派なテーマパークを造り、これほど大きくて立派な神社や遺跡があるのだから、お前の言うことは嘘である、として殺していった。これが勝者の歴史作りである。

​ 奈良国立文化財研究所の研究員が「これ以上鳥取県で遺跡が見つからないでほしい。古代史の定説が覆ってしまう」と言った。しかし、鳥取県民は長瀬高浜遺跡や妻木晩田遺跡や青谷上寺地遺跡が発掘されてもほとんど無関心である。まるで古代史に触れることがタブーであるかのように。

​ 蘇我馬子大王は日羅の進言に基づき、任那(全羅南道)を侵す百済に対して、王か王子が倭国に来るよう要求していた。631年、百済王武は、唐の倭国使高表仁が百済を通る時に豊璋と塞上を倭国に連れて行くように頼んだ。中大兄王子(豊璋)は6歳で、弟の塞上とともに鳥取県北栄町由良の蘇我入鹿(善徳)大王の皇居(由良の宮)に来た。驚いた蘇我入鹿(善徳)大王は高表仁の非礼をとがめた。中大兄王子(豊璋)は由良の宮に来た時から教えられていた六韜に基づいて蘇我入鹿(善徳)大王を徹底的におだてた。人の良い蘇我入鹿(善徳)大王は、中大兄王子(豊璋)と塞上を大海人皇子と同じように育てた。蘇我入鹿(善徳)大王は、隋の裴世清たちが蘇我馬子大王に北栄町北条島で謁見した時の話を聞かせていた。中大兄王子(豊璋)は「日出ずる処の天子・・・」の話を「日本」の参考にし、「大国維新之化を教えて欲しい」の話を「大化の改新」の参考にした。

 中大兄王子(豊璋)の母(641年に亡くなった武王の妻で皇極・斉明)と鎌足(翹岐)は、高名な40人を乗せた百済からの船で奈良に到着した(642年)。中大兄王子(豊璋)は法興寺での蹴鞠の会(643年)で鎌足(翹岐)に出会って奈良に住んだ。
​ 高句麗と百済は中国の兵法書「六韜」に基づいて行動していた。645年に、中大兄王子(豊璋)と鎌足(翹岐)は談山(テロリストのアジト)で計画したとおり、「豊璋(天智)の母(皇極)が会って礼を言いたい」と欺いて呼び出し、聖徳太子こと蘇我善徳大王を斬首した。
 647年に倉吉市大原の石上神宮の武器と宝物を「蘇我倉山田石川麻呂大王が奈良は物騒だからと言った」と欺き奈良に移した。蘇我善徳大王の大海人皇子(天武天皇)は649年(18歳)に鳥取県倉吉市の賀茂神社を皇居として即位した。​
​ 660年、残りの百済王族も列島に亡命した。天智と鎌足は天武天皇に額田王と十市皇女と引き換えに大田皇女と鸕野讃良を差し出した。

 天武天皇も役行者も大来皇女も長屋親王も泊瀬の斎宮(倉吉市の大御堂廃寺)で道教を会得した。

 ​「日本」とは669年に百済人の天智(豊璋)が近江で考えた国号である。斬首した首を包んだ白い布を日本の国旗とした。

​ 天武天皇は鎌足の殺害(669年)後、その子3人(氷上娘・不比等・五百重娘)に罪はないとして引き取った。670年、天智は斑鳩寺・斑鳩宮を放火焼失させた。天武天皇は671年に父親と従兄殺しの犯人として天智を殺害したが、その娘2人に罪はないとして引き取った。その後、父の蘇我善徳大王(聖徳太子)の建立した斑鳩寺を法隆寺として再建した。

 日本書紀は壬申の「乱」とするが「乱」ではなく、神武天皇の時から倭国大王家が準王一族(蝦夷)の「乱」に対して行なってきた平定であった。

​​​ 藤原不比等は大王や側近を徹底的におだて、相手の判断が鈍ったところで毒殺した。不比等と鸕野讃良は大王や多くの要人を毒殺している。高市大王(在位686~696)、忍壁大王(在位696~705)、穂積大王(在位705~715)は在位期間が短いので暗殺されている。不比等のおだてを見ていた周囲の者は誰も不比等が犯人だとは気が付かなかった。亡命百済王朝(日本)は、助けてくれた倭王朝の恩を忘れて734年に安全のため倭(鳥取県中部)にいた大王(在位715~734)(大伴旅人や山上憶良の表記は大君)も殺害した。倭国は734年に滅んだ。

 全国に4万4千社ある八幡神社は倭王朝の伝承を消すために8世紀に日本(亡命百済王朝)の神社として始まった。倭姫命(卑弥呼)と崇神天皇が全国を平定するために始めた神社のやり方を真似て全国を支配するため、八幡神社を増やして全国の支配を拡げていった。八幡神社を全体の半分以上とし、3世紀に倭王朝(卑弥呼や崇神天皇)が建てていた神社をも飲み込んで列島を支配した。倭王朝に虐げられていた準王一族(鬼・蝦夷)にも福付き姓に対抗して藤(百済)付き姓を与えた。準王一族は東北や出雲や阿蘇や高千穂に多い。藤原氏は現在、伊勢神宮(神社本庁の本宗)を頂点として全国8万5千の総ての神社を支配している。伊勢神宮の大宮司は鷹司(NEC通信システムの元社長)である。

 藤原氏は天皇を隠れ蓑にして最大権力を持ち続け、裏で歴史を動かしてきたが、歴史に名を残さない(藤原氏の思い通りにするよう仕掛けて実行させ、その行為が後に批判を受けると、自分の指示ではないと逃げる)ことが家訓であった。源平合戦、本能寺の変、秀吉の朝鮮征伐、西南戦争、多くの暗殺事件、大東亜戦争などは藤原氏が仕掛け人である。近衛(日本赤十字社のリーダー)は藤原氏の本家である。国民には百済国の歴史書である日本書紀を正史・国史としこれに反する言論・出版は戦前まで不敬罪により罰した。列島において斬首(豊璋=天智天皇)・暗殺(翹岐=藤原鎌足)を始めたのは倭国を乗っ取った百済人である。

​​​​ 徳川幕府は鳥取県中部が古代、都であったことを知っていた。幕末に将軍の兄を鳥取藩の藩主にしている。薩摩の西郷隆盛も「鳥取藩は新政府に参加するか」と伺いを立てている。
 京都から鳥取藩に使いが来て「王政復古が失敗したら明治天皇をかくまって欲しい」と言った。断られたのでそのあと鳥取県中部の由良町に行った。そこでも断られた。京都の藤原氏も明治維新まで古代、鳥取県中部が都であったことを知っていた。






2019年1月、倭国古代史研究会を起ち上げました。「倭国」をむやみに使用しないようお願いします。
当時、使用が少なかった「真実」の文字が今は氾濫しています。「倭国」とは奈良時代まで全国に121国あった小国の一つであり、鳥取県中部のことでした。


​​※ 倭国の都(鳥取県中部)に関する地をあげてみました。
クリックされると多くの比定地が出てきます。​​https://www.google.com/maps/d/embed?mid=zHBbhU6acc3o.kqAjrr24ZHBA
​地図の左上をクリックされると一覧が表示されます。 ​​平成28年​5月11日更新​