テーマ:日本書紀10代から27代までの倭国天皇

第13代武内宿禰大臣(王)の皇居は鳥取県北栄町原集落にあった

1 13代武内宿禰大臣(大王)の皇居は鳥取県北栄町原の元野神社である。  日本書紀・推古・蘇我馬子の葛城県の要請とその死・において、「冬十月一日、大臣馬子は、阿倍連と阿倍臣摩侶の二人に天皇に奏上させ、『葛城県は元、私の本貫であります(代々葛城氏が居り、蘇我は葛城の同族になるという考え)。その県にちなんで蘇我葛城氏の名もありますので…
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筑紫国造磐井に賄賂を送ったのは新羅ではなく百済である

1  日本書紀・継体天皇・磐井の乱において「近江の毛野臣が、兵六万を率いて任那に行き、新羅(百済)に破られた南加羅・㖨己吞を回復し、任那に合わせようとした。このとき筑紫国造磐井がひそかに反逆を企てたが、ぐずぐずして年を経、事のむつかしいのを恐れて隙を窺っていた。新羅(百済)がこれを知ってこっそり磐井に賄賂を送…
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倉吉市大原(石上)と三朝町大瀬(勾金橋)に行ってきました

1  倉吉市大原の大原神社  案内板には昭和9年の鳥取県神社誌にある由緒と同じことが書いてあったが、伯耆国二の宮である波波岐神社の部分は消してあった。こうして、石上神宮の名称が647年以降は二の宮の波波岐神社とされ元禄時代には大原神社とされたようである。その頃、岡山の石上布都御魂神社の宮司の名前を物部にし、血洗いの滝の伝承を作…
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第20代安康天皇の石上穴穂宮と第24代仁賢天皇の石上広高宮は倉吉市大原にあった

1  古事記・日本書紀の石上神宮 (1)古事記・履中「天皇は、その道から大和にのぼって、石上の神宮に難を逃れた。・・・弟君はこうして石上の神宮に参上して天皇のもとに、『仰せの通りに平定いたしましたので、ただ今、戻ってまいりました。』このように取り次がせた。」とある。  崇神天皇の時代に十握剣は石上布都魂神社に移されていたが石(イ…
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第25代武烈天皇の皇居

  第25代武烈(無道な百済王の事績を日本書紀に書かれている)の泊瀬列城(なみき)宮は倉吉博物館より少し西に行ったところにあった。  鳥取県神社誌に載っておらず、誰も管理していないような廃神社であるが、瓊々杵命が降臨した北栄町の大宮神社でさえ鳥取県神社誌には載っていない。雄略天皇がいた長谷寺から山道が通っている。そ…
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日本書紀にある倭(鳥取県中部)王の武烈・雄略の人殺しの記述は後の藤原氏による改ざんである

 伯耆国(鳥取県中西部)は人命を大事にする国であった。 1  境港で育った水木しげるが戦争で生き残ったときに言った言葉  水木しげるは境港で育った。  「戦時中、特に前線では人間扱いされることなんてあり得ないことでした。人間なのか動物なのか分からないほど、めちゃくちゃだった」。上官に、「よく生きて帰ってきた」と喜んでもらえると思っ…
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武烈・継体について

1  武烈天皇の旧辞は百済で無道を行った末多王の旧辞である。   日本書紀・武烈の暴虐・3年11月・において「この月に、百済の意多郎王が亡くなった高田の岡の上に葬った。」4年「この年百済の末多王が無道を行い、民を苦しめた。国人はついに王を捨てて、嶋王を立てた。武寧王が立った。」6年冬10月「百済国が麻那王を遣わして、調をたてまつっ…
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倭の五王の時代の朝鮮半島情勢について

 藤原氏は百済と新羅を入れ替えているので百済と新羅を元に戻して再現しています。 1 368年、百済から弓月君(ゆづきのきみ)が至り、天皇に対して奏上するには、百済にいる民人を連れて帰化したいけれども百済が邪魔をして任那から海を渡ってくることができないという。天皇は弓月の民を連れ帰るため襲津彦を任那に遣わしたが、3年経っても襲津彦が…
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雄略天皇の皇居、長谷の山(打吹山)に行ってきました

 案内板には「長谷寺はいつごろ建てられたかはっきりしない。縁起では養老5年(721年)に建てられた」とある。日本書紀が完成したのが720年であり、不比等が亡くなった年(720年)の翌年721年まで山上憶良はこの近くの伯耆国庁にいた。山上憶良が帰る年に長谷寺は建立されたことになっている。 1 葛城山から長谷の山の登り口までのルート …
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雄略天皇の皇居は鳥取県中部(伯耆国)にあった

 第十二代天皇以降は伯耆国は関係ないと思っていたが、第十五代天皇や第二十一代天皇も伯耆国にいた。 1  古事記の「一言主」や日本書紀の「一事主」は原古事記にあった「事代主」を書換えたものである。  日本書紀には「天皇は葛城山に狩りにおいでになった。突然長身の人が出現した。天皇はどちらの公でいらっしゃいますか、といわれた。背の高い…
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鳥取県北栄町米里(磐余邑)に、第17代履中天皇、第22代清寧天皇、第26代継体天皇の皇居はあるか  

 履中天皇の磐余稚桜宮は一の崎  清寧天皇の磐余甕栗宮は大谷  継体天皇の磐余玉穂宮は三の崎 と思われる。 1  候補地は3ヵ所ある。左上は一の崎、左下は三の崎と言う。「二の崎はどこにあるのでしょう」と地元の人は言っていた。右の「船渡」ではなく右下の「大谷」である。 一の崎・三の崎は、丘陵地を囲むように民家が建っている…
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三天皇が皇居を置いた磐余とは鳥取県北栄町米里集落であった

 三天皇が皇居を置いた磐余とはどこであろうか 1  磐余(伊波礼)を皇居とする天皇  履中天皇 磐余稚桜宮(伊波礼若桜宮)(北栄町米里一ノ崎)  清寧天皇 磐余甕栗宮(伊波礼甕栗宮)(北栄町米里大谷)  継体天皇 磐余玉穂宮(伊波礼玉穂宮)(北栄町米里三ノ崎)  継体天皇の皇統は途切れていないから皇居を転々と移してはいない…
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日本書紀14代天皇から27代天皇までの概略

1 仁徳と履中の期間は倭の五王讃一人であった。  原古事記には仁徳天皇と履中天皇の在位期間の間に一人の天皇が記載されていた。この天皇を仮に讃天皇とすると、この天皇は応神天皇の王子であり、反正天皇の兄であり、皇居は磐余の稚桜宮にあった。古事記・日本書紀では14代天皇を創作したために、実在した14代仁徳天皇を16代にしなければならなかった…
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第15代応神天皇(在位354年~394年)の軽島之明宮は鳥取県倉吉市穴窪にあった

1  日本書紀・応神・弓月君・阿直岐・王仁・において「大和の軽の坂上の厩」を倉吉市馬場町に比定したが、応神天皇の皇居の軽島之明宮は何処であったか。  軽と言いながら、島がついているので、天香具山を越えた北栄町島と迷っていたが、北栄町島は蘇我馬子の磐余池辺雙槻宮があったことがほぼ確実であるので応神天皇の軽島之明宮は北栄町島ではない。 …
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日本書紀応神の軽の坂上に造られた厩は倉吉市馬場町にあった

 馬二頭を奉ったのは、百済王ではなく新羅王である。  王仁(ワニ)氏(綿津見族)は山幸彦を新羅から倭に送り届けた海神族であり慶州近くの港にいたはずである。百済ではなく新羅である。和邇(ワニ)氏の字を変えて百済にいたことにしている。だから阿直岐も新羅である。ここまで改ざんしているとは思わなかった。  古事記も公表する660年の間に日本…
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第14代仁徳天皇と第15代応神天皇の皇居

1 仁徳天皇は平群木菟宿禰であり、応神天皇は葛城長江襲津彦であった。  13代成務天皇はおらず、13代は武内宿禰大臣(大王)であった(生年月日が同じであるとするため)。14代は仁徳天皇であり武内宿禰大臣(大王)の4男の平群木菟宿禰であった(生年月日が同じであるとするため)。仁徳天皇を16代にもってくるから、仁徳天皇に仕えたとす…
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古代史上最大の謎、第13代成務、第14代仲哀、第15代応神、第16代仁徳天皇(280年頃から394年

古代史上最大の謎、第13代成務、第14代仲哀、第15代応神、第16代仁徳天皇(280年頃から394年頃まで)について 1 第13代、第14代、第15代、第16代  日本書紀は百済の王が倭国の天皇を下僕として(大臣として)使うという構成をとる。たとえば、蘇我氏である。蘇我氏は大王(天皇)であったのに、日本書紀では大臣として書かれて…
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第12代景行天皇、第13代成務、第14代仲哀(248年頃から354年頃まで)の皇居

1  第12代景行天皇の実在性には疑問が出されている。  私見 実在はするが、記紀における景行天皇の段は2世紀の倭の大乱における卑弥呼・倭建命(開化天皇)や孝霊天皇の旧辞が多くを占める。  たとえば、古事記・倭建熊襲を伐つ・倭建出雲を伐つ・倭建東国を伐つ・望郷歌・白鳥や、日本書紀・諸族土蜘蛛(ここの天皇は孝霊天皇である)・熊襲討伐(…
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奈良の三輪山祭祀の始まりについて

1  奈良歴史漫歩 「三輪山祭祀の謎」橋川紀夫  より  三輪山禁足地および周辺山麓から出土する祭祀遺跡と遺物には特徴がある。古墳時代中期(4世紀後半~)から後期(6世紀)にかけての時期に集中する。4世紀後半から始まった磐座祭祀は多量の滑石製模造品、土製模造品を伴い5世紀後半にピークを迎える。6世紀には子持勾玉を用いた祭祀が盛んに行わ…
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湯梨浜町舎人地区の五集落

 以前は、孝霊天皇一族のいた宮内を含めて舎人村であったが、今は湯梨浜町の舎人地区と言っている。  橋を渡って右側に野方集落、白石集落、方地集落、漆原集落、北福集落がある。  右が野方集落、中央奥が白石集落、左が方地集落。  右が漆原集落、左奥が北福集落である。  日本書紀・垂仁天皇・石上神宮には「・・・。…
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崇神天皇と垂仁天皇の皇居と活動本拠地

1 崇神天皇の皇居は原古事記の表記は「水垣宮」であった。瑞籬宮は同じ読みの別の漢字を持ってきた改ざん表記である。崇神天皇の水垣宮は水辺に近い長和田集落と思われる。  奈良の宮跡  「磯城瑞籬宮は、第十代崇神天皇が営んだ宮とされています。 記紀によりますと崇神天皇の時、民が死に絶えてしまうような疫病が発生しました。これは三…
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崇神天皇について

1  古事記における第十代の和風諡号と皇居のあった場所です。  第十代 崇神天皇  御真木入日子印恵命  師木の水垣宮  師木は東郷池周辺ですから崇神天皇は伯耆国に皇居があったことになります。第九代の開化天皇は但馬国経由で奈良に行ったとしていたが、倭国大乱で但馬国に疎開していた。第十代は伯耆国に帰ってきて、皇居は師木(東郷池周辺…
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鳥取県大山中腹の奥の宮に神南備(大神山神社奥の院)を創建したのは崇神天皇(155年~258年)である

 鳥取県大山中腹の奥の宮に神南備(大神山神社奥の院)を創建したのは崇神天皇(155年~258年)である。 1 鳥取県神社誌昭和9年刊より  大神山神社 主祭神 大巳貴命(又の名を大国主命)  由緒 「神代の昔、八束水臣津野命と大己貴大神が大山預上で神事を執行せられし以来、御神霊ましますとして、御神系の方々がその祭祀に奉祀せられ…
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神道の始まりは道教であり、全国に広めたのは倭姫命(卑弥呼)・倭建命・崇神天皇であった

1  倭姫命が定めた20社(神話の森・倭姫命世紀より)  また大若子命に「汝が国の名は何そ」と問ふと、「百張(ももはる)蘇我の国、五百枝刺(いほえさす)竹田の国」と申上げた。その処に(倭姫の)御櫛が落ちたので、その地を櫛田と名づけ、櫛田社を定められた。  ここから御船に乗って幸行し、河後の江に到ると、魚が自然と寄り集って、御船に参…
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