テーマ:天照大御神(徐福)

天照大神は徐福であった

天照大神は徐福であった1 中国人は大喜びであり、我々日本人は大変残念であるが、我々が尊敬してやまない天照大神は徐福であった。悔しいが、これが真実と思われる。時代も神武天皇即位年紀元前60年説を採れば無理なくつながる。崇神天皇も卑弥呼も天武天皇も道教を信奉していたが、これは始祖が道教を信奉していたからである。始祖とは道教の方士徐福である。…
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徐福と天照大御神の来倭コースは重なる

徐福と天照大御神の来倭コースは重なる 1 宮下文書(徐福文書)より抜粋 東海の蓬莱山を目指して出航した徐福船団は、東の水平線上に秀麗な山様を認め、これこそ蓬莱山であると全員で遥拝した。しかし、やがてその姿を見失い、海上をさまよったが、陸地と大きな山があったので、その裾野の小さな湾に船を着けて上陸した。しかし、近づいてみると、船上で遥拝…
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天照大神(徐福)の生涯 

  1 八女童男山1号古墳(福岡県八女市大字山内)に徐福の没年は「辛酉年2月17日御年66歳」と刻まれているそうである。これによると徐福の生存年はBC.245~BC.180ということになる。これが正しいように思われる。  徐福は26歳で初来日し、35歳(BC210年)で再来日した。天忍穂耳は第一次の時から参加していたものと思われ…
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天照大神は男性である

 以下、ウィキペディア等を引用しています。 1  天照大神の性別に関しては、古事記は一切触れていないが、日本書紀では ただ一ヶ所、素戔嗚神が天照大神に「如不與姉相見」(お姉さんと会いたいと思って)と言うところがあることから、女性神と見る見方が現代では優勢である。  ある方の疑問  近くの寺に天照大神の像があるのですが、男の…
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出雲国は天照大御神(徐福)の子の天穂日が建国したとされているが、その子の建比良鳥は殷の末裔の箕子朝鮮

 出雲国は天照大御神(徐福)の子の天穂日が建国したとされているが、その子の建比良鳥は殷の末裔の箕子朝鮮の準王(紀元前194年頃に渡来)であった。  理由 1  殷の末裔の箕子朝鮮も出雲国も青銅器文化であること。 2  倭国で発掘された銅鐸の一番古いものは紀元前190年頃であり、それまで馬韓で踊りの拍子とりに使われていたとい…
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熊野本宮大社の主祭神である家津美御子はヤマト王権と敵対していた鬼・猿・土蜘蛛・蝦夷と呼ばれる青銅器文

 熊野本宮大社の主祭神である家津美御子はヤマト王権と敵対していた鬼・猿・土蜘蛛・蝦夷と呼ばれる青銅器文化の一族である 1  熊野三山の縁起(ウィキペディアより) 熊野三山は熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社の三社からなるが、当初は別個の展開をたどり、本宮は崇神天皇代、速玉は景行天皇代(扶桑略記)、那智は孝昭天皇代に裸行が開基し…
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速玉男命は徐福(紀元前219年の第一次)の重臣であった

 徐福一行の第二次(紀元前210年)は辰韓に渡り次々に伯州(伯耆国)に向けて出港し伯州(伯耆国)に結集したが、第一次(紀元前219年)のときは、対馬海流を考慮していなかったため、船出した船は列島に散りじりに漂着した。熊野もその一地域であった。 1  新宮の徐福公園の碑より  日本の書物の長寛勘文には「第五代孝昭天皇の時代に南蛮江…
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記紀の高天原は蒜山高原であった

1  蒜山高原の朝 右下は高速米子道  東の高天原は富士山麓にあったという説があるが、宮下文書に書いてある富士山高天原説は藤原氏によって改ざんされたものであり、真実ではない。宮下文書の原文は徐福が蒜山において記録文書化したものである。徐福が書いた文書を改ざんして富士吉田の宮下家に保管させた。  西の高天原は北九州にあったと…
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宗像三女神の本家は米子の胸形神社であり九州の宗像大社ではない

1  米子の宗形神社  西伯郡成実村宗像向塔  「祭神」田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命ほか十八神    ※三女神は天照大御神・素戔嗚命の御子神とある。血はつながっていないが親といえば親である。  「由緒」 延喜式神名式に伯耆国会見郡胸形神社とある旧社にして古来上下の崇敬殊に篤い。古昔鎮座の地は現在地より北3丁(330m)あまりの宮…
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天照大御神と素戔嗚命のうけいは鳥取県淀江町の天の真名井で行われた

  天の真名井の近くには、妻木晩田遺跡、上淀廃寺、稲吉角田遺跡、宗形神社がある。  稲吉角田遺跡は弥生時代中期(紀元前100年~紀元前50年)であり、天孫族は大陸に行くルートの中継地として淀江町を重視していた。私見では神武天皇四兄弟の時代である。神武天皇四兄弟は淀江町を通って九州に行った。妻木晩田遺跡が出来たのは紀元元年頃である…
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鳥取県西部の日御碕神社と大神山神社

1  海岸近くの日御碕神社 (1)総社 現住所 島根県出雲市大社町日御碕455    日沈宮はもと経島に鎮座した。 (2)鎮座地 東伯郡下中山村大字御崎字屋敷下通    現住所 鳥取県西伯郡大山町御崎86  由緒 天長年間島根県国幣小社日御碕神社の御分霊を鎮祭し瀧上神社と称し、当時出雲国日御碕神社宮司小野尊光の祖先小野…
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大山や蒜山などの山をセンと読む一族は、山を仙人や神仙の「仙」に置き換えて読む道教の方士徐福の本隊であ

  1 蒜山周辺の50余りの山をセンと読むのは春秋時代の呉から来た集団がつけた、という説がある。  春秋時代の呉があったのは、現在の揚子江河口辺り(上海・蘇州のあたり)である。ここから船で出航すれば半分以上は九州に到着する。彼らは九州の山々にセンという読み方をつけていったと思われるが、九州にセンと読む山は少ない。従って、春秋時代の呉…
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徐福は小さな湾(鳥取県北栄町)に到着し蒜山高原(岡山県真庭市)に上がった

(1) 中国の政治家、文学者、詩人、歴史家である郭沫若(1892年~1978年)は「銅鐸は殷人の一種の銅器である」と述べ、春秋時代の徐国が、殷の文化伝統を忠実に継承し、そっくり出雲に移住していたという。  昭和十六年の「日支交通史」の著者である王輯五は、出雲族は秦系大陸民族であり、考古学的には銅鐸民族であり、徐福集団に比定されるとして…
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東海の三神山とは日本海から見た大山・烏ヶ山・蒜山のことである

 徐福が筆録したと伝えられている宮下文書(徐福文書)は、「一行は航海十余日で、住留家の宇記島原に上陸し、松岡宿から水久保宿を越え、富士山麓の阿祖谷家基津に到着した。この一帯は、高天原と呼ばれて、日本最初の首都の跡だった」とする。  上陸した宇記島・原は鳥取県北栄町の島集落と原集落であった。どちらも、紀元前210年では海面が海抜4mであ…
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徐福が見た大山(ダイセン)

 徐福が筆録したと伝えられている宮下文書(徐福文書)は、「東海の蓬莱山を目指して出航した徐福船団は、東の水平線上に秀麗な山様を認め、これこそ蓬莱山であると全員で遥拝した。しかし、やがてその姿を見失い、海上をさまよったが、陸地と大きな山があったので、その裾野の小さな湾に船を着けて上陸した。しかし、近づいてみると、船上で遥拝した霊山とは…
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徐福一行は朝鮮の辰韓にたどり着きしばらく止まった後、つぎつぎと伯州(伯耆国、鳥取県中西部)に結集した

 徐福一行は朝鮮の辰韓にたどり着きしばらく止まった後、つぎつぎと伯州(伯耆国、鳥取県中西部)に結集した。 1 秦の始皇帝が天下を握った221年ごろには、秦以外のすべての国々は消滅した。燕・斉・趙の民数万人が、朝鮮に逃避した。朝鮮では、国を割いてまで秦の亡民の建国を許している。辰韓は秦の民が多く集まったので秦韓と呼ばれた。王輯五は、「徐…
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建国発祥の地である伯耆国

 Ikko Kurosawa氏の文章を一部引用しています。 1  始皇帝は方士徐福に仙薬を求めることを二回命じている。一回めは(紀元前219)で、「蓬莱の薬を手に入れることができなかったのは、鯨に苦しめられて到達することができなかったからです。鯨をしとめる射手を供にして下さい。」徐福はそう奏上した。二回目は(紀元前210年)、大船…
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鳥取砂丘に次ぐ鳥取県中部の北条砂丘(笠沙之御前)に漂着したハングル文字のゴミ

(1) 鳥取砂丘に次ぐ鳥取県中部の北条砂丘(笠沙之御前)に漂着したハングル文字のゴミです。  プロパンガスボンベまで漂着していた。 (2) 朝鮮半島からのゴミが鳥取県や丹後半島に流れ着くということは、対馬海流とリマン海流の作用によって鳥取県や丹後半島あたりに漂着するからである。日本列島と朝鮮半島との地形を見ても鳥取県あた…
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新羅(斯蘆国)は鉄の武器を作りに渡った稲飯命が建国した

1  辰韓の地名由来  辰韓の地名由来は、秦の苦役を避けて韓にやって来た昔の逃亡者がいたから辰(秦)韓という、とする(三国志魏書辰韓伝・晋書辰韓伝・後漢書辰韓伝)。  彼らは2次の徐福一行である。始皇帝はこの時まで徐福を信じていたようである。徐福は後に「秦の苦役を避けて韓にやって来た」と言った。徐福はここに来るまで始皇帝に「不老…
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朝鮮半島に三韓ができる前後の中国・朝鮮の歴史

  この節は「ウィキペディア」と「さだべえ」を参照しています。 1  中国の春秋戦国時代に河北省、遼寧省、山東省辺りにあった燕や斉は秦国に滅ぼされ、難民が朝鮮半島に流れ込んだ。韓も紀元前230年に秦によって滅ぼされ、韓の難民は山東省から朝鮮半島南部に辰国を建国した。韓族は当初、馬韓を支配し、辰韓を秦の始皇帝の労役を嫌った秦人…
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