テーマ:火火出見と神武天皇4兄弟

神武天皇の段にある「宇陀」とは鳥取県倉吉市高城地区(楯縫郷)のことであった

​​ 神武天皇の段にある「宇陀」とは鳥取県倉吉市高城地区(楯縫郷)のことであった  1 イツセとイワレヒコは西の米子市淀江の津から船で東郷池に入った。「波荒く立ち騒ぐ波速の渡」とは東郷池の入り口である。倭建命の言った「柏の渡」と同じ場所である。当時の東郷池は柏葉の形をしていた。 戦前まで倉吉市上井町は日下村(草香村)であった。何度も洪…
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兄磯城と弟磯城は事代主と百八十神(出雲族)の子孫であった

 兄磯城と弟磯城は事代主と百八十神(出雲族)の子孫であった 1 大国主と事代主は親子ではない。大国主は素戔嗚の子であり、事代主は葦原中津国で大国主に蹴散らされた出雲族(百八十神)の頭であった。大穴持命や大穴牟遅神は歴代の出雲族の王名であり大国主ではない。出雲大社に祀られているのは大国主ではなく、出雲族の歴代の王であった。国譲り後、大国…
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神武天皇の「島つ鳥 鵜飼いがとも」の歌の舞台は奈良ではなく鳥取県北栄町であった

 神武天皇の「鵜飼いが友」の歌の舞台は奈良ではなく鳥取県北栄町であった1  日本建国史 「曲学の徒」桂川光和より 「楯並(たたな)めて 伊那佐の山の 木の間よも い行きまもらひ 戦えば われはや餓(え)ぬ 島つ鳥 鵜飼いがとも 今助(す)けに来ね。」この奈良の伊那佐山での戦いを歌ったものである。 伊那佐山の木の間を行き来しながら、楯を並…
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神武天皇が即位した橿原宮は鳥取県倉吉市大宮にあった

1  岡山県久米郡美咲町百々大宮は第十一代垂仁天皇の本拠地と比定したのであるが、周りにある弓削や久米という地名はヤマト王朝に直結する部民がいた集落につけられた地名である。久米にしろ弓削にしろ大宮からはかなり離れたところにある。ところが、倉吉の大宮は弓削なり久米の地名は近くにある。ということは、ここにいた王は第十一代よりも初期であったとい…
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倭国歴史書原本の本当の神武天皇行軍コース

 倭国歴史書原本の本当の神武天皇行軍コース 1  日本書紀も、1540年までに書き換え、挿入をしている。  日本書紀は720年以降も藤原一族の何人もの手で何度も書写されている。書写するときに示し合せて新たに文を挿入したとしてもおかしくない。人代巻28巻がそろったのは1540年であった。それまで、改ざん挿入がなかったと考えるほうが…
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神武東征は不比等の創作であった。神武天皇は鳥取県中部(倭国)を出発し、鳥取県中部(倭国)に帰ってきた

 神武東征は不比等の創作であった。神武天皇は鳥取県中部(倭国)を出発し、鳥取県中部(倭国)に帰ってきた。 1 私見 (1)イツセとイワレヒコは九州を平定して(鹿児島県・佐賀県・福岡県で発掘された紀元前100年頃の鉄鏃より)安芸国を通って倭国(鳥取県中部)に帰り、米子市淀江の津で新羅からの鉄製の武器を受取り、船で東郷池に入ったと思…
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神武天皇、神武天皇の皇后、皇后の母の神社と小野小町の遺跡に行ってきました

1  神武天皇は古事記では二人目の皇后として、比売多多良伊須気余理比売を迎えた。  この女を后に世話したのは、大久米命で、伯耆の西伯郡会見町の高佐士野(恐らくは越敷野)を7人の乙女が遊ぶ中の、先頭に立つ乙女がおめあての女性だと歌で知らせた。  倭の 高佐士野を 七行く乙女どもを誰をしも 枕かむ (共に寝ようか) 2  鳥…
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神武天皇たちは妻木晩田を開いた

1 糺(ただす)神社  明治42年まで鳥取県西伯郡所子(ところご)村大字所子字神田(じんでん)(門脇家住宅の先、サイの神の道向かい)に糺(ただす)神社があった。祭神は神日本磐余彦、鵜草葺不合、玉依姫、誉田別、倉稲魂、天照大神、大山祇、稲田姫、水象女、猿田彦、鈿女  神武天皇(紀元前112年生まれ、紀元前60年即位)とその両親…
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日本書紀の「日本」(ヤマト)や古事記の「大和」(ヤマト)とは鳥取県中部の「倭」(ヤマト)である

1  古事記・朝日のただ射す国・において「瓊々杵命が『この地は韓国を望み、韓国からの船が笠沙之御前を巻くように通る。朝日のまともに射す国、夕日の照り輝く国である。こここそは吉相の地である』と言った」とある。  笠沙之御前や葦原中津国は鳥取県中部(倭国)にあった。  天孫降臨の頃(紀元前200年頃)の海面は今より4m高かった。 …
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新羅(斯蘆国)は鉄の武器を作りに渡った稲飯命が建国した

1  辰韓の地名由来  辰韓の地名由来は、秦の苦役を避けて韓にやって来た昔の逃亡者がいたから辰(秦)韓という(「三国志」魏書辰韓伝・「晋書」辰韓伝・「後漢書」辰韓伝)。  彼らは徐福一行(二次)と思われる。始皇帝はこの時まで徐福を信じていたようである。徐福は後に「秦の苦役を避けて韓にやって来た」と言った。徐福はここに来るまで始皇帝に…
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神武天皇の皇軍と兄磯城が戦った磐余邑は鳥取県北栄町である

神武天皇の皇軍と兄磯城が戦った磐余邑は鳥取県北栄町であった。 1 日本書紀・神武天皇・兄猾弟猾・兄磯城弟磯城において  兄磯城の軍は磐余邑にあふれていた。敵の拠点はみな要害の地である。それで道は絶え塞がれて通るべきところがない。天皇はこれを憎まれた。夢に天神が現れ教えていわれた。「天の香久山の社の中の土を取って、平瓦八十枚をつく…
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記紀の神武天皇・ヤタガラスの記述以降は鳥取県中部(内つ国)が舞台であった

 記紀の神武天皇・ヤタガラスの記述以降は鳥取県中部(内つ国)が舞台であった。 1 ヤタガラス (1)古事記のヤタガラス イワレヒコの夢の中に、タカギの大神が現れて、次のように教えていった。「天神の御子よ。この土地から奥のほうへ深入りしてはならない。この奥には、荒々しくすさまじい神々が、多勢いることだ。今、天から八咫烏(ヤタガラ…
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倭国(鳥取県中部)にとって九州は大陸に渡るために重要であり、神武四兄弟は九州を平定した

 倭国(鳥取県中部)にとって九州は大陸に渡るために重要であり、神武四兄弟は九州を平定した。1 鳥取県中部の四王寺山は楯縫神社より海側にあり、日当たりが良く日向の地であった。神武四兄弟は日向(四王寺山)を出発した。2 山口県光市より西は伝承がほとんどないが、島田川流域には磐余彦や御毛沼の伝承があるので、光市から宇佐に渡ったと思われる。宇佐…
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神武東征の目的は都を東に遷すのではなく東夷(青銅器文化の一族)を平定することであった

1  鳥取県神社誌(昭和9年)より  上里神社 村社 東伯郡  東に向いている。  高いところにある。  鎮座地 東伯郡日下村大字清谷字宮下  現在地 鳥取県倉吉市清谷1217番  祭神 天津日高日子番能瓊瓊藝命、天児屋根命、天鈿女命  由緒 紀元沿革不詳、御鎮座の由来と云へるものに、神倭天皇日向よ…
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神武天皇(紀元前112年生、紀元前60年即位)のいた四王寺山の近くから紀元前100年頃の遺跡が発掘さ

神武天皇(紀元前112年生、紀元前60年即位)のいた四王寺山の近くから紀元前100年頃の遺跡が発掘された 1  鳥取県倉吉市大谷の中尾遺跡より弥生時代中期(約2100年前)の竪穴建物跡12棟、掘立柱建物跡5棟が見つかった。  倉吉市ホームページより 教育委員会事務局 文化財課 ―弥生時代中期の集落跡発見!― 中尾遺跡発掘調査…
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神武天皇の即位年は西暦紀元前660年であるとする。しかし、改ざんされているという説が有力である。何年

神武天皇の即位年は西暦紀元前660年であるとする。しかし、改ざんされているという説が有力である。何年改ざんされているのだろうか 1 神武天皇の即位年は日本書紀によると西暦紀元前660年に相当する。この即位年は改ざんされているというのが主流であるが、何年改ざんされているかについては説が分かれる。(1)600年改ざん説 (2)660年…
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日本書紀・神武天皇にある畝傍山は四王寺山であった

1  日本書紀・神武天皇・宮殿造営に「見ればかの畝傍山の東南の橿原の地は、思うに国の奥深く安住に適した地である。ここで治めるべきである、と令を下された。」とある。原文には「國之墺區」とある。これは厳密には「国の奥深く安住に適した地」と解釈するそうである。私見では倉吉市大宮は歴代31人の天皇の皇居の中で一番山奥に位置する。  「橿原…
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四王寺山周辺の遺跡地図

1  四王寺山周辺の遺跡  遺跡・古墳の時代はご自分でお調べください。旧石器時代から古墳時代まであります。 2  主に奈良時代以降の遺跡  上から下を通っているのは県道倉吉東伯線(151号線)です。県道151号線は倉吉から琴浦町伊勢野に通じている。泊瀬の斎宮(倉吉市駄経寺町)から伊勢神宮(琴浦町伊勢野)まで…
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伯耆国の四王寺山(鳥取県倉吉市)に行ってきました

  四王寺山より大谷集落を俯瞰する。茂みの向こうは県道になっているが、県道を通る者は大谷集落があることが判らない。一部崩されて田になっているが、大谷集落を人為的に隠しているとしか考えようがない。茂みの向こうのほうに山上憶良(百済人)も来ていた伯耆国の国庁(八世紀)跡がある。藤原朝廷は729年に長屋王を暗殺し、734年に倭国を乗っ取…
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神武天皇たち四王子は鳥取県倉吉市の四王寺(しおうじ)山にいた

1  宮崎県高千穂町の四皇子(しおうじ)峰  「宮崎県高千穂町の四皇子峰は神武天皇の兄弟神(四皇子)誕生の地と伝えられ、御陵がある」とする。   四皇子峰の案内板には「神武天皇の御兄弟神(四皇子)誕生の地と伝えられ、御聖域とされている。彦火火出見尊(瓊々杵尊の御子で山幸彦)の御子鵜鵝草葺不合尊は玉依姫と結婚され、彦五瀬命…
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鵜草葺不合は彦火火出見のあだ名であった

1 古事記・日本書紀は「鵜草葺不合は彦火火出見命の子である」とする。  先代旧事本紀の天孫本紀には「天孫天津彦々火瓊々杵尊の孫、磐余彦尊が天下を馭ようとして東征した」とある。「瓊々杵尊の孫、磐余彦尊」とある。鵜草葺不合(産屋を建てるのが間に合わなかった)とは正式な名前だろうか。 2 ウィキペディアより ウガヤフキアエズ王朝は、「ウ…
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豊玉毘賣命・玉依毘賣命は辰韓出身であった。海神(綿津見の大神)は船頭の頭領であり慶州近くの港にいた

1  豊玉毘賣命・玉依毘賣命を記載する古事記の抜粋 (1) 塩土の神は、无間勝間の小船を作り、御子を乗せて、「私がこの舟を押し流しますから、そのまましばらく行きなさい。快適に進める海路があるでしょう。その海の道に沿って行くと、魚の鱗のように作った宮殿があります。それは海神の宮です。その宮殿にたどり着くと、門のところに湯津香木があります…
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