テーマ:藤原氏

日本書紀は列島における百済再興のために制作された

 日本書紀は列島における百済再興のために制作された。1 旧唐書に倭国と日本(百済)は別の国と書かれるほど唐に疑われていたので万世一系の天皇家と思わせるようにしなければならなかった。そんなおり、太安万侶より倭国の歴史書が上程された。不比等をはじめとする亡命百済人たちは百済(日本)の歴史書を創るにあたり、倭国と日本(百済)は別の国と思われな…
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八幡神社は藤原氏の神社である

八幡神社は藤原氏の神社である。 1 八幡宮は、八幡神を祭神とする神社。全国に約4万4千社あり、大分県宇佐市の宇佐神宮を総本社とする。 和銅元年(708)に鷹居社を造立し八幡神として祀ったのが八幡信仰の始まりといわれている。そして霊亀2年(716)には小山田社に遷座、さらに神亀2年(725)には、小倉山の丘陵(現在の亀山)にさらに遷座し…
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藤原氏の明治政府で始まった大日本帝国軍隊の歴史

1  ウィキペディアより ☆ 明治元年(1868年) ☆ 日清戦争(1894年) ☆ 日露戦争(1904年) ☆ 日韓併合(1910年) ☆ シベリア出兵(1918年)  連合国の1国であるロシアで「ロシア革命」が勃発すると、西部戦線で手一杯になっておりロシアへの出兵の余裕がないイギリスとフランスの依頼により、陸軍主力を派遣…
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大日本史と神祇志について

1 大日本史と神祇志について(ウィキペディアなどによる) (1) 大日本史は1657年(明暦3年)に編纂作業が開始され、編纂が終結するのが1906年(明治39年)と、実に250年もの長きに渡り続いた。  まず「旧紀伝」と称されるものが完成する(1680)。天和二年(1682)に史臣の山県源七(元纜)が上京した機会に、公家の 土御門泰…
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明治初期の太政官制について

1  ウィキペディアより  政体書に基づいて1868年6月17日、日本の新しい体制が発足した。国家権力全体を支配する組織を太政官と称して律令制を導入した時よりあった。太政官は中務省、式部省、民部省、治部省、兵部省、刑部省、大蔵省、宮内省の八省を統括する最高機関である。  1869年8月15日(明治2年7月8日)に、新しい太政…
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百済精神を理解できない伯耆国

秀吉は1585年に近衛前久の養子となって藤原姓となり、関白となった。藤原氏は、養子・秀吉に戦争するようにそそのかした。朝鮮出兵(文禄の役)はその7年後の1592年である。中国、朝鮮を支配し、天皇を中国・朝鮮・日本共通の皇帝にしようという思想は、藤原氏が元々持っていた思想である。第二次世界戦中の、大東亜共栄圏建設の思想でもあった…
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倉吉市の法華寺畑遺跡は処刑場であった

 法華寺畑遺跡は発掘された建物の規模と配置からすれば国分尼寺ではなく国庁に関連した役所です。全国に類例がなく何のための役所だったかは判らない。 (公式)   「祭祀の場だったかも知れない。空間が広くとってあるのも儀式を行うためか。」という説もある。   私は処刑場であったと考える。  伯耆国は他の国と違い、初期天皇の血…
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古事記・日本書紀について 2

1 日本書紀・推古天皇・新羅征討の再開で田中臣が言う。「そうではない。百済は度々豹変する国である。道路の区間さえも偽りがある。およそその言うところは皆信じられない。百済に任那をつけたりすべきでない」とある。新羅王は「任那は小さい国でありますが、天皇につき従い仕える国であります。どうして新羅の国が気ままに奪ったりしましょうか。今まで通りの…
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古事記・日本書紀について

古事記・日本書紀について 1 蘇我馬子天皇と聖徳太子(蘇我入鹿天皇)は天皇記・国記を作っていたというが、乙巳の変で燃やされてしまった。天武天皇の時代になって、正統な天皇家の歴史を残さなければならないという必要性を生じ、歴史書の編纂を命じた。それが原古事記である。国家元首の正統性を示すための歴史書に「一書に曰く」などという無責任な書…
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藤原氏は焚書坑儒をした。「焚書」について

藤原氏は焚書坑儒をした。「焚書」について 1 日本書紀  日本書紀は天武天皇ではなく藤原不比等が作ったものである。  日本書紀を作ったのは、天武天皇ではない。日本書紀は日本を征服した藤原不比等が、自分たちが、征服した「倭」を、これからは、倭ではなく、「日本」という国名にしますと、外国にも宣言する独立宣言の記念誌であった。 …
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藤原氏は大陸的手法である焚書坑儒をしているが、坑儒について

 藤原氏は大陸的手法である焚書坑儒をしているが、坑儒について、奈良時代までは以下のとおりである。  中大兄王子と中臣鎌足は蘇我入鹿天皇(蘇我善徳=聖徳太子)と蘇我倉山田石川麻呂天皇を殺した。  中臣鎌足の子の不比等は天武天皇と天武天皇の側近20人ほどを毒殺した。天武天皇の毒殺の後にも、大津皇子、草壁皇子、高市天皇、忍壁天皇、穂積…
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藤原氏について(日本書紀は偽書)

藤原氏について(日本書紀は偽書) 1 藤原氏の始祖は藤原鎌足である。藤原鎌足は百済出身であり中国の兵法書「六韜」を暗記していた(藤氏家伝)。天武天皇は「子供は親とは違う」という考えに基づいて、鎌足の子供三人を引き取った。しかし不比等は「六韜」の「権力者がいたら側近になって徹底的におだてろ、そうすれば 彼は反省を失い判断力が鈍るだろ…
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