テーマ:出雲大社のモデル

出雲大社のモデルは松江の田和山遺跡の5本柱遺構ではなく、湯梨浜町の長瀬高浜遺跡の巨大4本柱遺構であっ

出雲大社のモデルは松江の田和山遺跡の5本柱遺構ではなく、湯梨浜町の長瀬高浜遺跡の巨大4本柱遺構であった 1 稲吉角田遺跡の絵画土器に描かれている高い建物は出雲大社のモデルではないか、という説が多い。 石碑の正面は天真名井のある淀江町高井谷集落である。 絵画土器の土器片から復元された壺である。 この4本柱の高い建物が出雲大社のモデル…
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稲吉角田遺跡 弥生中期の壺絵 その2

 稲吉角田遺跡 弥生中期の壺絵 その2 1  稲吉角田遺跡は弥生時代中期でも、紀元前1世紀頃の遺跡である(民俗学ひろいあげ辞典より)。妻木晩田遺跡も紀元前1世紀頃に始まった遺跡である。 熊野大社と茶臼山(倭国の中心)とは直線距離で70km。茶臼山から妻木晩田とは直線距離で34km。妻木晩田は準王一族(出雲神族)の本拠地(熊野大社)と倭…
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稲吉角田遺跡 弥生中期の壺絵 その1

稲吉角田遺跡(米子市) 弥生中期の壺絵です。「建物は古代の出雲大社の原型」という説が有力である。船の人物は中国の奥地、雲南のテン族や苗族の当時の頭飾りと似ている。以下はある方の説です。私には稲吉角田遺跡の土器絵画が、弥生の祭祀を単に描いたのではなく、どこかの近在の遺跡の具体的な祭祀を描いたものに思えてならなかったのである。稲吉角田遺…
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長瀬高浜遺跡の弥生前期の土器について

 調査報告書5に、「昭和53年度56年度調査地区(f1地区)内、特に19D・20D・19E地区内より多量の弥生土器が出土した。遺構として認識したものは前述したが、ほとんどの弥生土器は遺構に伴わず出土している。古墳時代の住居あとを建てるときに弥生時代の住居跡等生活面が破壊されたためであろう。壺(PO1~38)甕(PO39~60)その他の器…
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長瀬高浜遺跡発掘調査報告書を見てきました

 左上がSB40であり、下の中ほどがSB30である。  報告者はSB30を弥生時代前期とする。それに引き替えSB40は古墳時代前期とする。 理由は、 1  「北に隣接するSB40が複雑な施設を持つ巨大な高床建物であるのに対し、SB30はそれより古く、簡素であるということはSB30はSB40築造前に、その役割を果たした建物で…
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長瀬高浜遺跡の大型高床建物は、稲吉角田遺跡の線刻画の建物であり、大国主命がいた高い宮殿であり、出雲大

  長瀬高浜遺跡の大型高床建物は、稲吉角田遺跡の線刻画の建物であり、大国主命がいた高い宮殿であり、出雲大社の原型である   発掘途中の大型高床建物跡(SB40)の写真(羽合歴史民俗資料館)です。  左上に古墳時代の円墳がありそれよりも色が白い。地層が古墳時代より古いものと思われる。  この(SB40)が古墳時代というのは間違…
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多芸志の小浜は鳥取県湯梨浜町長瀬高浜にあった

1 鳥取県淀江町稲吉角田で線刻画の刻まれた弥生時代中期の壺が発掘された。その線刻画の中に高い4本柱ではしごの掛かった建物があった。通説はこれを高さ25mくらいであり、出雲大社のモデルである、とする。  長瀬高浜遺跡のSB40の建物跡は、約5mの間隔の柱穴は径2.5m、深さ2.2~2.5mあり、高さも25mくらいはあったと思われる。…
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出雲大社について

 出雲大社について。 1 古事記原文  唯僕住所者。如天神御子之天津日繼所知之。登陀流天之御巣而。於底津石根宮柱布斗斯理於高天原。氷木多迦斯理而治賜者。僕者於百不足八十[土+冏]手隱而侍。 とある。  訳  ただ私の住む所は、天つ神の御子(瓊々杵命)が天つ日継知らしめす壮大な天の宮殿のように、底つ石根に、柱を太く立てて大空…
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