第2代~第9代(欠史8代)の天皇は鳥取県中部(倭の都)に実在していた


※ 欠史八代非実在説
1  旧辞的部分を欠く。
2  二代~九代の寿命は異常に長い。
3  諡号がおかしい。
4  すべて父子相続である。
5  物事の順序からして、奈良盆地の一隅にいる豪族が盆地の外へ進出・発展していくためには、その前提として盆地を制圧・平定し、支配下に置いていなければならないはずです。ところが古事記・日本書紀ともに、奈良盆地の制圧・平定に関する経過を何一つ記していません。十代崇神に至っていきなり、盆地外への進出・発展の動きが現れます。神武の子孫たちが次第に実力を蓄えて奈良盆地の一隅から徐々に勢力を拡大し、やがて盆地全体を制圧・平定するに至るまでの経過を、説話として残していない。奈良盆地の外へ進出・発展していくためには、盆地の制圧・平定が前提であるにもかかわらず、その前提を語る伝承が何もないなど考えられない。

※ 欠史八代実在説
1  帝紀的部分のみがあって、旧辞的部分を全く欠くのは二~九代の天皇だけではない。帝紀はもともと系譜的記事だけのものである。旧辞的記事のないことのみで帝紀を疑う理由にはならない。二~九代に相当する旧辞の巻が失われた可能性もある。
 事績がないということでは、さらに実在が疑われたことのない第二十四代仁賢天皇から三十三代推古天皇までの十代に亘っており、これも実在しなかったと言われても仕方がなくなってしまうだろう。
2  二代~九代の天皇の異常な寿命の長さは不自然だが、これは実在が確実な雄略天皇にも見られ、これだけで非実在の証拠とはならない。讖緯説に従い日本の歴史を遡らせるならば、自然な長さの寿命を持つ天皇の存在を何人も創作して代数を増やせばよい。にもかかわらずそれをしなかったのは、帝紀記載の天皇の代数を尊重したためであろう。古代天皇の不自然な寿命の長さが、かえって系譜には手が加えられていないことを証明していると考えることもできる。
 また、実在するのは崇神天皇からで、それ以前の九代は大和王朝をより古く見せるために造作したとする見解も根強いが、それならわずか九代の造作などといわず、二十代でも三十代でも創作すればよかったわけで、それをしなかったということは、九代が史実だったからに違いない。
3  七代~九代の天皇の名は明らかに和風諡号と考えられるが、諡号に使われる称号のヤマトネコ(日本根子・倭根子)を除けば七代はヒコフトニ(彦太瓊・日子賦斗邇)八代はヒコクニクル(彦国牽・日子国玖琉)九代はヒコオオビビ(彦大日日・日子大毘毘)となり、実名らしくなる。こう考えれば実名を元に諡号が作られた可能性もあり、後世創作の架空の天皇であると一概には言えない。むしろ十三代・十四代の天皇の名のほうが実名らしくない名前で、和風諡号と言うより抽象名詞(普通名詞)に近く、欠史八代よりもこちらの方が実在の可能性が低い。二代、三代、五代の天皇の名は明らかに実名として生前に使われた可能性が高い。和風諡号に使われる称号の部分がないためで、実在の可能性は高い。
4  すべて父子相続である点は確かに不自然だが、それだけでは非実在の証拠とはならない。むしろ後世に伝わった情報が少なかったために、実際は兄弟相続だったものも便宜的に父子相続と記されたとも考えられる。事績が欠けているのも同様に説明がつく。
5  稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣に八代孝元天皇の第一皇子大彦命の実在を示す系譜が刻まれていたことから、孝元天皇及びその直系親族や近親者も実在の人物とみなす見方がある。孝元の名前を刻まなかったのは、大彦命が孝元の皇子であることが広く知られていたためと考えられる。鉄剣に刻むスペースの問題を考えれば、孝元の名を省いたとしても不自然ではない。
6 各天皇の記述を補足するが如くの、氏族、豪族、臣の掲載は広範囲に列挙されており、特に丹波国と王族との関係は深く婚姻関係の深まり丹波の豪族の巨大さと影響力を知らされる。

※ 私見  鳥取県中部(倭の都)に実在説
1  古事記を見るかぎり諡号に不自然さは感じない。むしろ十三代・十四代の天皇の名のほうが実名らしくない名前で、和風諡号と言うより抽象名詞(普通名詞)に近く、欠史八代よりもこちらの方が実在の可能性が低いものと思われる。史実は、十三代は武内宿禰天皇であり、十四代は十三代の四男の仁徳天皇であった。
2  父子相続が多いことになっているが、史実は兄弟相続もあった。
3  伝承がないから存在しなかったとは、必ずしも言えない。
 鳥取県東部には因幡の白兎伝説があり、天照大御神の伝承も残っている。鳥取県西部には第七代孝霊天皇の伝承が多く残る。しかし、鳥取県中部には下照姫の伝承以外は残っていない。そんな鳥取県中部に何故奈良時代に国庁を置き山上憶良のような重要人物を派遣したのだろうか。それは消さなければならない重要な伝承が鳥取県東部や鳥取県西部と比較できないほどたくさんあったからだと思われる。伝承をするものを「お上に対する嘘つき」だとして悉く一族全員を殺していった。こうして、鳥取県中部には誰も伝承を言うものは居なくなった。
4  藤原氏が占領した日本の始まりを高句麗や新羅よりも古く見せるために藤原氏にとってはどうでもいい伯耆国にいた天皇の生存年数を伸ばした。
5  原古事記には第2代から第9代までの旧辞の記述もあったが藤原氏が消した。
 藤原氏は百済より亡命してきた難民である。新羅を侵略しようとしたから百済は滅ぼされ、百済難民は列島に亡命した。660年には残りの王族も列島に亡命してきた。倭国は百済難民を奈良に住まわせた。百済は669年に日本と名乗り、734年に倭国の大君を殺して列島を乗っ取った。倭国は弥生後期(186年頃)までに列島の西は熊本県、東は岩手県まで青銅器文化の一族(鬼・土蜘蛛・蝦夷=殷王朝末裔の準王一族)を平定し全国を統一していた。卑弥呼と倭建命の征西と東征によって各地に神社を創らせ(倭姫命世紀)祭祀方法を変えさせて全国を統一した。全国を統一していった過程を神武天皇から崇神天皇までの旧辞に誇らしく書いてあったはずである。734年に列島を乗っ取った藤原氏はこれをそのまま残すわけにはいかなかった。藤原氏より500年以上前から全国を統一していた日本国とは別の王朝(倭王朝)があった記述を残すわけにはいかなかった。これが最大の理由である。
6  第9代天皇の旧辞がないというが、第9代開化天皇は倭建命であったから、古事記にも日本書紀にも景行天皇の皇子として倭の大乱の記述として詳しく書かれている。また、第7代孝霊天皇の旧辞も景行天皇や神武天皇の土蜘蛛との戦いとして挿入されている。「椎」の字が出てくるのは孝霊天皇の旧辞である。欠史8代の旧辞は他の天皇の旧辞の中に入れ込んでいるようである。
7 奈良盆地に創ってある欠史八代の皇居の比定地を見て回ったが、石碑が立ててあるだけある。地名を付けて、石碑を建てるだけなら、日本全国どこでもできる。非実在説は奈良に欠史八代はいなかったとする。非実在説は机上で考えられた鳥越憲三郎氏の葛城王朝説を否定することになる。
 欠史八代は奈良には実在しなかったが、鳥取県中部に実在した。鳥取県中部では、欠史八代の皇居の比定地を集落単位で想定できる。

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