倭建命ゆかりの地(鳥取県関金町清水集落)に行ってきました


画像
 倭建命が矢を放った塔王権現は清水集落の奥にあると聞き、出会った人は「この奥1Kmくらいだが道もなく迷ってしまうようなところだから案内できない。清水集落でも知っているものは少ない。戦時中は兵隊がよく拝みにきたものだ。」と言っていた。先ごろの戦争にも利用されたらしい。先に見えるのが清水集落。
画像

 橋の向こうの集落が生竹である。この反対側には耳集落がある。
画像

 矢止めの荒神さま。地図では因山神社となっている。石段を上がっても小さな祠があるだけである。
画像

 案内板には『伯耆国と美作国の境に矢筈山という高山あり、その山頂に唐王権現という石祠と石塔あり、日本武尊西国平定の道すがら矢筈山に登り、山頂より東北に矢をつがえ「この矢の止まる限りをわが守護の地とならん」と、矢を放ち給えば東北なる二里余りの小鴨村加茂河内生竹と称する所に落下せり。このところに荒神宮の小祠あり、荒神宮の神さま里人と相謀り「貴き神の矢なるべし」と、この矢を丁重に遺りかえせしが、これより後、生竹の里人達は、矢をお止になりし荒神さま、即ち、矢止め荒神さまと、益々あがめている』とある。
 矢筈山とは大山の前にあり船上山に通ずる矢筈山ではない。その山ならば、矢止め荒神の真西になるからである。
 清水集落の塔王権現は唐王権現が正しいであろう。鳥取県中部では705年に役行者が三徳山を開山して、山岳信仰が始まるが、849年に円仁が唐から帰り三徳山の三仏寺を開いた。円仁は新羅から東郷池に着船した。着船したのは筑紫ではない。途中で三徳山に寄ってから京都に帰った。これが無理のない解釈である。藤原氏はこの伝承を改ざんしている。
 西国平定とあるが、この時(169年頃)は讃岐に逃れていた倭迹迹日百襲媛命が18歳になり丹後に逃れていた倭建命が12歳になったので、皇軍に二人が加わり、新見の石蟹を平定して蒜山に来た時である。そのあと、鬼住山の鬼の兄弟を平定し、出雲を降伏させた。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのトラックバック