テーマ:序章

飛鳥寺(法興寺)は新羅の皇龍寺をモデルにして建立された

 飛鳥寺(法興寺)は新羅の皇龍寺をモデルにして建立された。 1 飛鳥寺(法興寺)「寺社建築と文化財の探訪<TIAS>」より  伽藍配置 一塔三金堂  南北293m、東西は北辺216m、南辺260mの台形  飛鳥寺の伽藍配置は、一塔三金堂をもつ「飛鳥寺式伽藍配置」とよばれ、その起源は清岩里廃寺(高句麗) や王興寺(…
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倭国に仏教を公伝したのは百済の聖明王(在位523~554)ではなく新羅の法興王(在位514~540)

 倭国に仏教を公伝したのは百済の聖明王(在位523~554)ではなく新羅の法興王(在位514~540)であった。  ※以下は私見 1 公伝年をめぐる諸説(ウィキペディアより) (1)日本書紀では、欽明天皇13年(552年、壬申)10月に百済の聖明王(聖王)が使者を使わし、仏像や経典とともに仏教流通の功徳を賞賛した上表文を献上したと…
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「倭人が新羅を攻撃した」とする「三国史記」と「伝承」は改ざんされている

 「倭人が新羅を攻撃した」とする「三国史記」と「伝承」は改ざんされている。 1 原古事記(712年)には新羅は倭国と兄弟国であり、百済は倭国の敵国であったと書かれていた。藤原氏は百済は良い国であり新羅は悪い国であったことにするため、原古事記に書かれていた新羅と百済を入れ替えて記紀を改ざんしたから倭国と新羅との関係も悪かったことにし…
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日本書紀・欽明天皇の段の「百済」と「新羅」は入れ替えられている

日本書紀・欽明天皇の段の「百済」と「新羅」は入れ替えられている 1 欽明天皇はおらず、この時の倭国天皇は蘇我稲目天皇であった。原文の「新羅」を日本書紀では「百済」に入れ替えているため、原文の「新羅王」も「百済王」と入れ替えた。百済の聖明王(在位523~554)は、原文では新羅の法興王(在位514~540)であった。 (1) 日本…
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日本書紀の改ざん創作(特に百済と新羅を入れ替えている)について

日本書紀の改ざん創作(特に百済と新羅を入れ替えている)について 1  日本書紀の中で改ざん創作(特に百済と新羅を入れ替えている)されていると思われる部分を挙げてみました。 イ  垂仁紀2年是歳条  崇神天皇の65年に朝貢してきた任那の使いが国へ帰るというので、絹織物を持たせたら途中で新羅(百済)に奪われた。別の伝承では「…
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日本書紀にある泊瀬山は奈良の初瀬山ではなく鳥取県倉吉市の打吹山である

日本書紀にある泊瀬山は奈良の初瀬山ではなく鳥取県倉吉市の打吹山である  日本書紀・嶋王(武寧王)誕生において「6年春2月4日、天皇は泊瀬の小野に遊ばれた。山野の地形をご覧になり、深く感慨をもようされ歌われた。泊瀬の山は、体勢の見事な山である。山の裾も形の良い山である。泊瀬の山は、何とも言えず美しい。何とも言えず美しい。そこで名づけ…
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師木県主のハエ(波延・葉江・蠅)一族は出雲神族(準王一族)であった

 師木県主のハエ(波延・葉江・蠅)一族は出雲神族(準王一族)であった。 1 日本書紀・垂仁天皇・石上神宮には「五十瓊敷命は、茅渟の菟砥の川上宮においでになり、剣一千口を造らせられた。・・・。石上神宮に納めた。ある説によると、五十瓊敷皇子は、茅渟の菟砥の河上においでになり、鍛冶の名は河上という者をおよびになり、太刀一千口を造…
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難波津とは東郷池であり、難波の柏の渡りも東郷池にあった

難波津とは東郷池であり、難波の柏の渡りも東郷池にあった 1  古事記・応神・天之日矛において「天之日矛は夫婦喧嘩をしたため妻は母の国に行くといって船で難波にきて、そこにとどまった。天之日矛はあとを追いかけて難波に行こうとしたが難波の海峡の神が、遮りとめて入れようとしなかった。しかたなしにそこから戻って、多遅摩の国に船を泊めた」とあ…
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 シキ(磯城・師木・志幾・斯鬼)とは鳥取県湯梨浜町東郷池周辺と思われる

 シキ(磯城・師木・志幾・斯鬼)とは鳥取県湯梨浜町東郷池周辺と思われる。 1 古事記における第2代天皇、第3代天皇、第5代天皇の帝紀(欠史8代であり、藤原氏は8代の旧辞を消したため安心してそれほど改ざんはしていないと思われる) 第2代 綏靖天皇  神沼河耳天皇 皇居は葛城高岡宮。 第3代 安寧天皇  師木津彦玉手看天皇 皇…
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古事記・日本書紀にあるシキ(磯城・師木・志幾・斯鬼)とは鳥取県湯梨浜町の東郷池周辺であった

古事記・日本書紀にあるシキ(磯城・師木・志幾・斯鬼)とは鳥取県湯梨浜町の東郷池周辺であった 1  欠史8代というが、鳥取県中部に実在した。第2代天皇は北栄町曲の蜘ヶ家山(葛城山)の岡神社(葛城高岡宮)に皇居があった。第3代天皇は湯梨浜町橋津観音堂に皇居があった。第4代天皇は倉吉市小田山に皇居があった。第5代天皇は倉吉市穴沢の灘手神…
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葛城は鳥取県中部(倭国)にあった

葛城は鳥取県中部(倭国)にあった。 奈良の葛城地方に、高鴨神社(祭神ー阿遅鋤高日子根、下照比売、天稚彦)・鴨都波神社(八重事代主と下照姫を主祭神とし、建御名方を配祀する)・御歳神社(祭神:御歳神で、相殿:大年神・高照姫)・長柄神社(祭神:下照姫)がある。ここに祀られている祭神を鴨一族といい、葛城の地が鴨一族発祥の地である、としている。 …
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銅鐸・銅剣・銅矛・銅戈を作ったのは殷王朝末裔の準王一族であった

銅鐸・銅剣・銅矛・銅戈を作ったのは殷王朝末裔の準王一族であった 1 準王については、三国志魏略(260年頃)に「その子や親が国(辰国)に居留し、韓氏の姓を僭称する。準王は海中にあり、朝鮮とは互いに往来した。その後、絶滅した。」とあり、後漢書弁辰伝(432年)に「初め、朝鮮王準が衛満に滅ぼされ、数千人の残党を連れて海に入り、馬韓を攻…
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初期ヤマト朝廷(邪馬台国を含む)と銅鐸・銅剣・銅矛・銅鏃の青銅器文化の一族とは対立していた

1  銅鐸・銅剣・銅矛・銅鏃の青銅器文化の一族と初期ヤマト朝廷(邪馬台国を含む)とを混同しておられる方がいるが、この両者は神武天皇の時から対立しており、第10代崇神天皇の時に全国を統一するまで、対立していた。  青銅器文化の一族の起源は殷王朝の末裔の準王一族であった。出雲と北部九州(吉野ヶ里)を拠点として全国に展開していた。時代は弥生…
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殷王朝(商)について

殷王朝(商)について 1  組織体制  組織体制は、大邑・族邑・属邑(小邑)が結びついた連合体で、邑(ゆう)というのは四方を城冊で囲んだ領域であり、大邑は王城、族邑は血統単位の集落である。殷王朝初期の鄭州王城には、大邑内に祭壇、骨角器や陶器の製作所、酒造工場、青銅器の鋳造所などがあった。 2  青銅器  殷時代の画期は、…
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「倭国在、東海中」とは、「倭国は日本海の沿岸にある」ということである

「倭国在、東海中」とは、「倭国は日本海の沿岸にある」ということである  「義楚六帖」「一切経」「大正新脩大蔵経」「唐大和上東征傳」の中に「倭国在、東海中」とある。この意味するところは何であろうか。  現代の日本人はこれを読んで、「大陸より東の海に日本列島があるということであたり前のことを言っているだけである」と解するものがほとん…
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縄文海進のピークは海抜20mあったとする倉吉住吉神社の案内板は正しいか

縄文海進のピークは海抜20mあったとする倉吉住吉神社の案内板は正しいか 1  「縄文海進のピークは6000年前から5000年前であり今より5m前後高かった」というのが通説であるが、倉吉市住吉神社の案内板には「往古この一帯が入江であった頃、海の守護神住吉神社をお祀りして植えた一本の欅の木が大きくなって住吉の船繋ぎの大欅と云って親…
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列島への渡来人

 日本列島への渡来人 1 縄文人  縄文中期(紀元前3500年頃~)頃は西日本は少なくて、主に東日本に多く分布していた。喜界カルデラの噴火が関係していると思われる。鳥取県中部でも縄文前期から縄文晩期にかけての連続遺跡(島遺跡)が発掘されている。 2 楚・呉・越の稲作渡来民(紀元前900年頃~)  稲作渡来民たちは、もとも…
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